2016年10月15日土曜日

受験世界史まとめ/海戦④

番外編

ディウ沖の海戦
時:1509年
場所:インド洋(ムンバイ西・ディウ島沖)
主な人物:アルメイダ(ポルトガル提督)

ポルトガル艦隊 vs. エジプト・インド連合艦隊

1498年,ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがインドのコショウ貿易港カリカットに到達します。その後,ポルトガルはインド洋の武力制圧を開始。商船ではなく,武器弾薬と兵員を満載した軍船を派遣し,東アフリカのキルワ,ソファラ,モザンビークなどに要塞を建設して,インド航路の独占を図りました。

初代インド総督に任命されたのがアルメイダです。

ポルトガルのインド洋進出に危機感を抱いたエジプトのマムルーク朝は,インドの諸侯と連合艦隊を結成して,これに対抗しようとします。これまでコショウなどの香辛料は,インド→インド洋→紅海→エジプトを経て,ヴェネチア商人の手でヨーロッパ市場に流れ込んでいました(紅海で中継貿易の担い手になっていたがカーリミー商人です)。ポルトガルの進出をゆるせば,香辛料はインド→喜望峰を経てポルトガル商人の手で売りさばかれることになります。カーリミー商人にとってもヴェネチア商人とっても,避けたい事態でした。

1509年,ディウ沖で両軍は衝突し,アルメイダ率いるポルトガル海軍が勝利して(ディウ沖の海戦),インド航路を確保。以降,ポルトガルはインドのゴア,ペルシア湾口のホルムズ,マレー半島のマラッカなどに進出して,海上帝国を作りあげました。首都リスボンは大いに繁栄します。一方,マムルーク朝は急速に衰退し,1517年にはセリム1世率いるオスマン帝国軍に敗れて滅亡してしまいます。ディウ沖の海戦は,ポルトガル・マムルーク朝の存亡を決定づける戦いになったわけです。

結果:ポルトガル側の勝利



アルマダ海戦
時:1588年
場所:ドーヴァー海峡,カレー沖
主な人物:エリザベス1世(イギリス女王),フェリペ2世(スペイン王)

スペイン艦隊 vs. イギリス艦隊

アルマダとは,スペインの無敵艦隊 Armada Invencible のこと。Armadaが「海軍」,Invencibleが「無敵の/難攻不落の」などを意味します。

背景にあるのは,イギリスとスペインの宗教対立です。イギリスがプロテスタント(新教/イギリス国教会),スペインがカトリック(旧教)です。このころ,フランスではユグノー戦争(1562~98),ネーデルラント(「低地地帯」:オランダ+ベルギー+その他)ではオランダ独立戦争(1568~1609)と,新教vs.旧教の宗教戦争が起きていました。

ユグノー戦争の「ユグノー」とは,カルヴァン派の新教徒を指します。フランス王(ヴァロワ家)のシャルル9世やその母カトリーヌ=ド=メディシス,ギーズ公アンリが旧教側,ブルボン家のナバラ王アンリ(のちのアンリ4世)が新教側です。1572年のサンバルテルミの虐殺カトリーヌが主導したとされる旧教徒による新教徒殺害事件。犠牲者は3万人とも)を機に両派の対立は加熱し,血で血を洗う抗争が始まります。フェリペ2世はもちろん旧教側を支援。軍隊すら派遣します。一方,エリザベス1世は新教側を支援しました。

オランダ独立戦争は,ネーデルラントの新教徒(ゴイセン)がスペインからの独立を求めて起こしたものです。フェリペ2世が旧教側,オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)が新教側です。エリザベス1世はもちろん新教側を支援します。イギリスはネーデルラントと経済的に強く結びついていたからです。具体的には,イギリス産羊毛の主要な輸出先=フランドル地方(毛織物業で有名)がここにありました。あわよくば,邪魔者のスペイン人どもをネーデルラントから追放したいと考えていたわけです(ちなみに,17世紀にはイギリス本国で毛織物の完成品を生産できるようになり,18世紀には世界最大の毛織物大国になります)。

これだけでもフェリペ2世を激怒させるに十分ですが,さらにイギリスの私拿捕船(私掠船:国家公認の海賊船)がカリブ海でスペイン船を公然と襲って積み荷の金銀財宝を奪っていたのですからなおさらです。この私拿捕船の船長として有名なのがドレークホーキンズでした。

1588年,エリザベス1世がスコットランドの元女王メアリ゠スチュアート(ギーズ公アンリの姪で,旧教徒)を処刑すると,フェリペ2世は,戦艦130,船員8000からなる無敵艦隊アルマダ。正しくはGran Armada 大艦隊)を編成し,上陸用の兵員1万9000を乗り込ませて,イギリス本土侵攻を計画しました。

ところが,スペインの海軍兵士ファン゠マルティネスは

「神が奇跡を起こしてくれなければ,イングランド艦隊は,わが艦隊よりも速く操作性に優れた艦船を持ち,わが艦隊よりも長い射程の銃器を備えており,しかもそうした自らの長所を熟知しているから,接近戦に持ち込むことなく,距離を置いてわが艦隊を撃破するだろう」

と述べています。神の奇跡がなければ勝てないと彼は言っているわけです。はじめからスペインは劣勢でした。

結局,司令官ホーキンズと副提督ドレークが指揮するイギリス海軍は,マルティネスが危惧したとおり,機動力と軽砲を駆使してスペイン無敵艦隊を打ち破りました。翌年,スペインに帰国できたスペイン兵は約半数だったと言われています。イギリスの大勝でした。

この後,スペインは没落し,イギリスが海上覇権を握ることになります。

結果:イギリス側の勝利。

2016年10月10日月曜日

受験世界史まとめ/海戦③


トラファルガーの海戦
時:1805年
場所:ジブラルタル海峡(トラファルガー岬沖)
主な人物:ネルソン(イギリス海軍提督),ナポレオン1世(フランス皇帝)

イギリス海軍 vs. フランス・スペイン連合艦隊

ナポレオン戦争(1796~1814)の一幕。この海戦でイギリスが制海権を握ります。

1802年,イギリスとフランスはアミアンの和約を結び,両国の戦争はいったん終結しました。ところが,1804年,ナポレオンが戴冠して第一帝政を開始すると,翌年,イギリスはロシア・オーストリアなどとともに第3回対仏大同盟を結び,フランスと開戦しました。

10月,ネルソン提督率いるイギリス海軍がトラファルガー岬沖でフランス・スペイン連合艦隊を撃破しました(トラファルガーの海戦)。この勝利でイギリスは制海権を握り,ナポレオンのイギリス本土侵攻の野望を打ち砕き,彼をヨーロッパ大陸に封じ込めることに成功します。

なお,陸上では,同年12月にナポレオン率いるフランス軍がアウステルリッツの会戦,通称「三帝会戦」で,ロシア(アレクサンドル1世)・オーストリア(フランツ2世)の連合軍を撃破し,第3回対仏大同盟を粉砕しました。ちなみに,3人の皇帝がそろったので「三帝会戦」です。

【こぼれ話】
トラファルガーの海戦で,ネルソンは旗艦ヴィクトリーに「Z旗」を掲げ,勝利を祈願しました。

ちなみに,ネルソンはこの海戦で敵に狙撃されて戦死。「神に感謝する。われはわが義務を果たせり」の言葉を残して死んだのち,遺体の腐敗を防ぐため,ラム酒の樽に漬け込まれました。ここからラム酒を「ネルソンの血」と呼ぶようになり,ネルソンにあやかってイギリス国民が争ってラム酒を飲んだそうです(でも,実際にネルソンが漬け込まれたのはラム酒ではなくブランデー)。

結果:イギリス側の勝利



日本海海戦
時:1905年
場所:日本海(対馬沖)
主な人物:東郷平八郎(日本司令官)

連合艦隊(日本) vs. バルチック艦隊(ロシア)

日露戦争(1904~05)の一幕。この海戦を機に,日露両国は講和します。

1904年,満州をめぐって日本とロシアが開戦。翌年1月には旅順要塞陥落,3月には奉天会戦と日本軍の勝利が続き,5月に起こったのが日本海海戦です。「トラファルガーの海戦以来最大の海戦」と呼ばれています。

1904年10月,旅順港に閉じ込められた太平洋艦隊を救出すべく,ロシアはバルト海に駐留するバルチック艦隊38隻を極東に向かわせました。バルチック艦隊は222日かけて日本海に到着。その間,日本の同盟国イギリス(日英同盟:1902年締結)に散々妨害されて,身も心もボロボロになっているところ,対馬沖で東方平八郎率いる日本の連合艦隊に迎撃されました。38隻中,沈没19隻,捕獲5隻,残り12隻は戦場を離脱できたものの,結局,武装解除を受けることに。司令官以下約6000名が捕虜となる大敗を喫しました。

ロシアはこの敗戦で戦勝の望みを失い,アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領の仲裁を受けて,講和条約(ポーツマス条約)を締結することになります。

【こぼれ話】
ちなみに,このとき東郷司令官が採用したとされる「T(ティー)字作戦」は実は「丁(てい)字作戦」。

東郷司令官も,ネルソン提督にちなんで,旗艦三笠(みかさ)に「Z旗」を掲げました。以来,日本海軍の伝統となります。なお,日産フェアレディZの「Z」はこのZ旗にちなんでます。

結果:日本側の勝利



ミッドウェー海戦
時:1942年
場所:太平洋(ミッドウェー島沖)
主な人物:山本五十六(日本司令官)

太平洋戦争(1941~45)中の一幕。この海戦を機に,日本は太平洋の主導権を失います。

1941年12月8日(アメリカ時間では7日),日本の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まりました。日本は東南アジア・南太平洋で主導権を握り,マレー半島,香港,シンガポール,インドネシア,フィリピン,ソロモン諸島を占領し,ミャンマーを征服。「大東亜共栄圏」の建設を進めました。

翌年6月,山本五十六連合艦隊総司令官は,艦艇47隻(うち空母4隻),航空機285機を誇る機動部隊を編成し,ミッドウェー島に向かいます。ここにアメリカの機動部隊をおびき寄せて,空母を撃滅するとともに,ミッドウェー島に前線基地を築くというねらいでした。

アメリカ側の戦力は,艦艇35隻(うち空母3隻),航空機233機と,日本よりもやや劣っていましたが,アメリカ軍は日本軍の暗号を解読しており,作戦内容を一から十まで把握していたので,日本の全空母および航空機を撃滅するという大勝利を収めました。

この敗戦を機に日本は戦争の主導権を失い,1945年に敗戦を迎えます。

結果:日本側の敗北


【残り】ディウ沖の海戦/アルマダ海戦/ナヴァリノの海戦


2016年10月9日日曜日

受験世界史まとめ/海戦②


プレヴェザの海戦
時:1538年
場所:イオニア海東海岸(プレヴェザ沖)
主な人物:カルロス1世(スペイン王),スレイマン1世(オスマン帝国スルタン)

カトリック連合艦隊 vs. オスマン帝国艦隊

オーストリア・トルコ戦争(1526~1699)の一幕。オスマン帝国の「壮麗者」スレイマン1世は,1526年,モハーチの戦いに勝利してハンガリーを征服し,1529年にはさらに北上してウィーンを包囲しました(第1次ウィーン包囲)。慣れない寒さに苦しんでオスマン軍は撤退しますが,ヨーロッパのキリスト教徒を震え上がらせました。

この間,オスマン海軍は1522年にロードス島の聖ヨハネ騎士団を撃退して東地中海に進出し,1538年にはスペイン・ヴェネチア・ローマ教皇のカトリック連合艦隊をプレヴェザ沖で撃破して(プレヴェザの海戦),全地中海の制海権を掌握しました

このとき,スペイン王はカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)。ローマ教皇はパウルス3世で,1545年にトリエント公会議を招集した教皇として有名です。

結果:オスマン側の勝利



レパントの戦い
時:1571年
場所:ギリシア(コリントス湾北岸レパント沖)
主な人物:フェリペ2世(スペイン王)

カトリック連合艦隊 vs. オスマン帝国艦隊

オーストリア・トルコ戦争(1526~1699)の一幕。1570年,オスマン帝国がキプロス島を征服します。これに対し,スペイン・ヴェネチア・ローマ教皇がふたたび同盟を結び,カトリック連合艦隊を結成しました。

翌1571年,カトリック連合艦隊はオスマン帝国艦隊をレパント沖で撃破して(レパントの海戦),地中海の制海権を取り戻しました。レパントの海戦は,16世紀最大の海戦と評されます。両軍合わせて400隻を越えるガレー船,2500門の大砲,16万人の将兵が参加し,その4分の1が戦死したそうです。

このとき,スペインの文豪セルバンテスが一兵卒として参加。彼はこの海戦を「かつてなかった最も偉大な一瞬」と呼んで讃えています。ちなみに,彼は1575年に退役。帰国途中,トルコの捕虜となり,5年間も幽閉されます。名作『ドン・キホーテ』を出版するのは1605年(前編)。還暦を迎える直前のことでした。

結果:カトリック側の勝利

  • カトリック側から見れば,プレヴェザの海戦で失った制海権をレパントの海戦で取り戻した,となります。
  • レパントの海戦からアルマダ海戦までは,スペイン艦隊は「無敵艦隊」でした。といっても,レパントの海戦はヴェネチア艦隊のおかげで勝ったようなものなので,「無敵艦隊」は敵と戦うまでは無敵だったと皮肉を込めて言われたりします。
  • ヴェネチアがオスマン海軍と対立したのは,彼らが東地中海の覇者だったからです。忘れがちですが,ヴェネチアは十字軍をきっかけに台頭し,このころ地中海交易圏=東方貿易のメインプレーヤーとなっていました。

【残り】トラファルガーの海戦/日本海海戦/ミッドウェー海戦

2016年10月4日火曜日

小ネタ



パルテノンとパンテオンってマジで混乱しません?

頭にクエスチョンマークを浮かべた人のイラスト(男性)

あと、中国史・朝鮮史で,「高祖」が2人,「太祖」が7人,「太宗」が3人いる!

【高祖】
①高祖=劉邦(前漢)
②高祖=李淵(唐)

【太祖】
①太祖=耶律阿保機(遼)
②太祖=趙匡胤(北宋)
③太祖=チンギス=ハン(モンゴル)
④太祖=朱元璋(明)
⑤太祖=ヌルハチ(清)
⑥太祖=王建(高麗)
⑦太祖=李成桂(朝鮮)

【太宗】
①太宗=李世民(唐)
②太宗=趙匡義(北宋)
③太宗=オゴタイ(モンゴル)

頭にクエスチョンマークを浮かべた人のイラスト(男性)

ちなみに,「○祖」とついた場合は、王朝のはじめの人か,遷都した人(遷都=王朝をリスタートさせたと見なすから)。「太祖」はすべて王朝のはじめの人だから,中国の王朝創始者を思い出せなかったら,とりあえず「太祖」と答えとけ,とか言われてます。

受験世界史まとめ/海戦①


受講生の要望にお応えして,山川出版社『世界史用語集』(新課程版,2014)所収の「海戦」を集めてみました。

「……海戦」はぜんぶで7つ。

帆船のイラスト


サラミスの海戦
時:前480年
場所:ギリシア(サロニカ湾・サラミス島)
主な人物:テミストクレス,クセルクセス1世

ギリシア連合艦隊 vs. ペルシア艦隊

ペルシア戦争(前500~前449)の一幕。ギリシアは,前490年のマラトンの戦いでペルシア軍の侵攻を退けましたが,前480年,クセルクセス1世率いるペルシア軍の侵攻をふたたび受けました。ペルシア軍はテルモピレーの戦いでレオニダス王率いるスパルタ軍を粉砕し,アテネに侵入して略奪の限りを尽くし,建造中のパルテノン神殿を破壊したりしました。

アテネの将軍テミストクレスは,ギリシア連合艦隊をサラミス島に集め,一計を案じてペルシア艦隊を狭いサラミス水道に誘いこむと,衝角戦法でこれを撃破しました。

結果:ギリシア側の勝利



アクティウムの海戦
時:前31年
場所:ギリシア(アクティウム岬沖)
主な人物:オクタウィアヌス,アントニウス,クレオパトラ

オクタウィアヌス(ローマ西) vs. アントニウス・クレオパトラ(ローマ東・エジプト)

共和政ローマ最末期のイベント。このとき,広大な支配領域を誇るローマは,オクタウィアヌスアントニウスという二人の実力者に分割されていました。西地中海の覇者がオクタウィアヌスで,東地中海の覇者がアントニウスです。

オクタウィアヌスは,あのカエサルの姪っ子です。カエサル暗殺後,その養子相続人,つまり後継者になりました。このとき,後継者の座をめぐり,カエサル派の大物アントニウスと対立しましたが,ふたりは和解して,同じくカエサル派の大物レピドゥスとともに第2回三頭政治を開始。和解のしるしに,アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアを妻として迎え入れました。

ところが,アントニウスは,エジプトの女王クレオパトラ(プトレマイオス朝最後の王)と恋に落ち,遺言状で彼女および彼女との間に生まれた子を相続人に指名します。つまりローマの東半分をエジプトの女王に譲り渡すというのです。オクタウィアとはもちろん離婚です。

このゲスの極みとも言える行為にオクタウィアヌスは激怒し,アントニウスを売国奴だ,謀叛人だと告発して,宣戦布告しました。彼はアントニウス・クレオパトラ連合艦隊(つまりローマ・エジプト連合艦隊)をアクティウムで破り,翌年にはアレクサンドリアでふたりを自殺に追いこみ,エジプトを属州化しました。

こうしてローマはひとつに統一されました。前27年にはオクタウィアヌスがアウグストゥス(尊厳者)の称号を得て元首政(プリンキパトゥス)を開始。帝政ローマがはじまります。

結果:オクタウィアヌスの勝利。



今日はここまで。

【残り】プレヴェザの海戦/レパントの海戦/トラファルガーの海戦/日本海海戦/ミッドウェー海戦

【番外】ディウ沖の海戦/アルマダ海戦

2016年6月14日火曜日

中国史/古代/秦

STEP3                 

 秦の法運用の実態 

 秦の法運用の実態は,1974年に発掘された睡虎地秦簡(すいこちしんかん)や1984年に発掘された張家山漢簡(ちょうかさんかんかん)のおかげでずいぶんと明らかになってきました。

「秦簡」とは,秦の時代の竹簡(ちくかん)という意味です。「漢簡」はもちろん漢の時代の竹簡です。当時はまだ「紙」がなかったので,細長い竹(割り箸みたいなやつ)に文字を書いて紙がわりにしていました。この竹の棒を「竹簡」と呼びます。あとは,文字が書かれた竹棒をひもで縛ってすだれみたいにし,クルクルと巻いて「巻物」にしました。今でも本を1巻・2巻と数えるのはこのときの名残です。いま文庫本1冊に収まっている『論語』も30巻あったそうなので,本というのはずいぶんとかさばるものでした。

 睡虎地秦簡も張家山漢簡もお墓に副葬されていたものです。こういうものを同時代史料と呼びます。
 張家山漢簡によると,死刑には,①腰斬(ようざん),②磔(たく),③梟首(きょうしゅ),④棄市(きし)の4種があり,腰斬は腰部切断(なかなか死ねないのですごく痛い刑),磔ははりつけ,梟首はさらし首,棄市は市場に死体を放置です。ところが,実際に腰部切断などを行っていたわけではなく,①腰斬では受刑者の父母・妻子・同母兄弟も連座して死刑,②磔では受刑者の妻子も連座して労役刑,③梟首は連座なしで「さらし首」あり,④棄市では連座も放置もなし,と決められていました。要するに,腰斬といってもただ名前だけで,実際は連座の範囲を表していたわけです。思ってたより秦の刑罰は残酷ではなかったよ,というのが研究者たちの結論です。僕たちから見れば,十分,残酷に見えますけど。
 そのほか多用したのが労役刑です。最も重い労役刑は「城旦(じょうたん)」といい,期限はなく,重い土木工事や危険な辺境の仕事に従事させられました。例えば,異民族の襲撃に怯えながら「万里の長城」を築くのは彼らの仕事です。また城旦を科せられた刑徒の妻子は奴隷身分に落とされましたし,罪に重さによって,①完城旦(肉刑なし),②黥城旦(+入れ墨),③黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ),④斬左趾黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ・左足切断),⑤斬右趾黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ・左足切断・右足切断)の等級がありました。女性刑徒の場合は黥まではありましたが,鼻削ぎや足の切断はなかったそうです。というわけで,思ってたより秦の刑罰は残酷ではなかったよ,というのが研究者たちの結論です。えっと,声を大にして言いたい。十分に残酷だと思う!
 秦は,阿房宮(あぼうきゅう)とか,馳道・直道とか,万里の長城とか,驪山陵(りざんりょう)とか,多くの大規模土木事業を進めたので,多くの刑徒が必要になりました。秦は法を厳格に適用し,全国から刑徒を集めて,宮殿を築いたりお墓を掘ったり長城を連ねたりしていたのです。

 旧六国の地域で反乱が相次ぐのも,当たり前のことでした。

参考資料:中国出土史料学会編『地下からの贈り物 新出土史料が語るいにしえの中国』東方書店

2016年6月13日月曜日

中国史/古代/秦

STEP 2            


 秦の滅亡 

 秦は15年で滅亡します。その原因は,①法家思想にもとづく厳格な政治,②民衆を苦しめた過酷な労役と対外戦争,にあったとされます。


 厳格な統治 

 法家思想は「信賞必罰」を旨とします。法律の運用を少しでも緩めると,「法律を破ってもかまわない」というムードが生まれてしまうからです。例えば,信号無視は立派な法律違反ですが,歩行者や自転車が信号無視を繰り返したところで警察は見逃してくれますから,みなさんもすっかり信号無視を犯罪とは思わなくなっていますよね。同じように,多少遅刻しても事情を説明すれば許してもらえるとか,大事な仕事でも体調が悪ければ休んでもOKとか,そういった甘いことをつづけていると,モラルハザードが起きて,だれも決まりごとを守ろうとはしなくなるわけです。
 秦は厳格な法運用を実施しました。統一後,旧六国(韓・魏・趙・斉・燕・楚)の民はあまりにも細かな法規定と厳しい罰則にうんざりします。


 過酷な労役と対外戦争 

 『史記』始皇本紀には「隠宮,徒刑七十余万人をして,乃ち分けて阿房宮を作らせ或いは驪山を作らしむ」とあります。「陰宮」は宮刑(性器切断刑)を受けた囚人,「徒刑」は労役刑を受けた囚人のことです。

●阿房宮
 秦の都は咸陽(かんよう)です。前350年に孝公が遷都して以来,ずっとここです。中心は渭水の北岸にあり,歴代秦王(始皇帝を含め8代144年)は,ここに宮殿を建設しつづけました。始皇帝も,六国を征服する過程で,国をひとつ征服するたび,その国の最も壮麗な宮殿を測量して,そのレプリカを咸陽につくらせました。そうした宮殿を「六国宮殿」と総称し,全部で145を数えました。1万を越える各国の美女がそこに集められていたそうです。
 阿房宮(あぼうきゅう)は,始皇帝が渭水の南岸に新たにつくらせた宮殿で,前212年に着工しました。『史記』によれば,「東西500歩(690m),南北50丈(115m),その上には1万人を座らせることができ,その下には5丈(11.5m)の旗を立てることができた」とのこと。渭水北岸の宮殿群と渡り廊下で結ばれていました。当時,民間では,「阿房,阿房,秦を滅ぼす」と盛んに歌われており(『述異記』),この阿房宮こそが民衆の反乱を招き,秦滅亡の原因になったとされています。

●驪山陵
 驪山陵(りざんりょう)は別名「始皇帝陵」。面積は56平方キロメートル。東京ディズニーランド約120個分です。約8000体の等身大陶製フィギュア=兵馬俑(へいばよう)で知られています。秦王に即位した翌年に造営を開始しました。
 兵馬俑は素焼きの人形です。約8000体もありながら,ひとりひとり異なる顔をしており,実際の兵士をモデルに作成されたと考えられています。顔にはエラの張り方や頬骨の高さなどに民族の特徴が出ており,秦軍が多種多様な出自の兵士によって編成されていたことがわかります。同時に,青銅製の武器も出土していますが,中にはクロムメッキ加工を施されたものもあり,埋められてから2000年以上経っているというのに,さびていなかったそうです(ちなみにクロムメッキ加工は耐摩耗性・耐食性に優れたメッキ加工で,1937年にドイツで発明されました。なぜ,この時代にあったのかはなぞ)。
 兵士をかたどった兵馬俑ばかりが有名ですが,文官をかたどった文官俑(ぶんかんよう)や芸人をかたどった百戯俑(ひゃくぎよう)なども発掘されています。そもそも,こうした俑(素焼きの人形)や青銅製の鶴や楽器などを埋めた穴を陪葬坑(ばいそうこう)と呼びます。全部で約200もあり,兵馬俑坑はそのうちの1つに過ぎません。そのほか,銅車馬坑,珍獣異獣坑,馬厩坑,動物坑,石鎧坑,百戯俑坑,文官俑坑,水禽坑(水禽は水鳥という意味)などがあります。いずれも始皇帝が死後の世界で必要とするものを俑や青銅でつくって埋めたと考えられています。動物率が妙に高いあたり,始皇帝は動物好きだったのかもと思わせます。
 肝心の始皇帝の墓は,場所はわかっていますが,まだ発掘されていません。始皇帝の遺体が眠る墳丘(日本の古墳と同じように中国の墓も土を盛って丘状にします)は,二重の城壁に囲まれていて,墳丘の地下30メートルの部分には巨大な地下宮殿が横たわっています。『史記』によれば,水銀で天下の河川(黄河や長江など),海を再現し,墓室の天井には天文を,床には地理を描いたそうです。中華世界を地下に再現したわけです。実際,最新技術で調査した結果,地下に広大な空間があることもわかっていますし,地表面の水銀量を測ったところ高い数値が出ているので,ある程度『史記』の記述どおりの墓室が発掘されるのではないかと期待されています。

●万里の長城
 万里の長城(ばんりのちょうじょう)は東西約5000キロ。モンゴル高原の遊牧民族「匈奴(きょうど)」などが,秦に侵入して来ないように建設したもの。そのころ,匈奴は頭曼単于(とうまんぜんう)という英主を得て,強大な勢力に成長していました。
 前215年,燕人盧生(ろせい)という人物が「秦を滅ぼすものは胡なり」という預言書を始皇帝に献上します。胡とは,北方の異民族を意味し,ここでは匈奴を指します。そこで,始皇帝はさっそく将軍の蒙恬(もうてん)に命じ,30万の軍を与えて匈奴を討たせ,オルドス地方から彼らを追放しました。その後,前213年までに東の端から西の端まで万里の長城を建設し,匈奴が南下できないようにしました。黄土が豊富な地域では版築で,そうではない地域では平石を積み重ねて高さ4m,幅4mの長城を築きました。なお,万里の長城は秦が単独で建設したわけではなく,もともと北方にあった旧六国の趙や燕が築いていたものを修築してつなげたものです。

●対外戦争
 前215年,蒙恬が30万の兵を率いて匈奴を討伐し,その翌年,屠睢(とすい)が50万の兵を率いて華南の百越(ひゃくえつ)を討伐しに向かいました。百越は浙江省・福建省など東シナ海沿いに暮らす海洋民族で,春秋時代に「越」を建国したことでも知られています。始皇帝は百越を討伐するために全長30kmの運河霊渠(れいきょ)を掘削して,湘水と離水という川をつなぎ,咸陽から水路で百越のいる華南まで行けるようにしました。屠睢は船に50万の兵士を乗せて,川伝いに華南に到達しましたが,そこで大敗。その後,趙侘(ちょうた)が指揮をとり,百越を征服して,南海(なんかい),象(しょう),桂林(けいりん)の3郡を設置しました。こうして秦の領域はベトナムのハノイにまで及ぶことになりました。


 厳格な法治,重い労役,度重なる外征に民衆の不満は蓄積し,始皇帝の死後,ただちに陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)と呼ばれる農民反乱が起きます。これが秦滅亡の第一歩となりました。


2016年6月12日日曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 封建制とは 



〈封建制度は双務的契約関係〉
それでは,封建制の続きです
「せんせー,ヨーロッパの封建制度と中国の封建制はどこが違うんですか?」
簡単に言えば,君主と臣下の関係が契約関係か血縁関係かです。ヨーロッパの封建制度の場合は『双務的契約関係』と説明されたりします。『契約』の意味はわかりますか?
「けいやく?」
「約束みたいなもの?」
うんうん,素直でいいですね
「2人以上の当事者が合意することによって成立する法律行為のことですよね」
……う,かわいくない。でも,まあ,そのとおりです。例えば,君主(雇う側,封建領主とか)が年収1000ポンドで雇いたいと提案し,臣下(雇われる側,騎士とか)がそれでよいと合意したら契約成立です。君主には約束どおり年収1000ポンド相当の封土を与える義務がありますし,騎士にはそれに見合った働きをする義務があります。戦争が起きたら,その君主側に立って参加しなければならないわけです
「せんせー,その騎士がチキン野郎で,いざ戦争になったらビビって逃げ出した場合はどうなるんですか?」
「そんなチキン野郎,戦場に来たって役に立たねーから,来なくてもよくね?」
「揚げて食べちゃえばいいよね」
「ミンチにして,つくねにした方がいいよ」
「ぶつ切りにして,カレーの具にすれ……」
はい,ストップ! 豚バラ肉以外のカレーなんて考えられません。冒瀆です。ビビって逃げ出したら,その騎士は契約で定められた義務を放棄したわけですから,契約は無効です。封土を取り上げられることになります。ミンチにしたりぶつ切りにしたりする必要はありません。逆に,君主が約束の封土を与えなかったら,今度は君主側が契約を破ったことになるので,騎士に従軍義務はありませんし,その君主のもとを去って別のもっとちゃんとした君主に仕えでもいいです
「敵の君主とかでもいいんですか? 昇給に納得できないから,あえてライバル社に移籍するような」
いいこと,言いますね。もちろんいいですよ


〈封建制は要するに分家〉
一方,中国の封建制では,王はそもそも自分と同じ宗族の一員を封建します。息子とか叔父とか従兄弟とかです
「『一族・功臣を諸侯にした』んじゃないんですか?」
教科書にはそう書いてありますね。確かに功臣も封建してるんです。例えば,周の文王・武王に仕えて殷周革命を成功させたのが,弁当売りの太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)です。釣りをしているところを文王にスカウトされました
「なんかすごく役に立たなさそう……」
何を言ってるんです。大活躍しましたよ。革命後,この太公望を山東半島の営丘の地に封建しました。それが戦国の七雄にも名前を連ねる『斉』です。でも,『一族・功臣を諸侯にした』と理解すると,血縁関係=宗族関係を基盤としたという西周封建制の特長があいまいになってしまうんです
「せんせー,そもそもどうして諸侯を置いたんですか? はじめから官僚を派遣して,中央集権体制で統治すればよかったのに」
いい質問しますね。でも,それは後知恵の意見です。彼らは初めて『広大な領域を支配する』という難事業に挑んだわけです。今なら国家統治のノウハウが蓄積されていますから,彼らよりも優れたアイデアを出せますけど,当時は,まあ,難しいですよね。彼らも,どうしたら広大な地域を治められるのか,探り探り進めていたはずです。ちなみに,西周が諸侯を置いたのは,鎮圧に3年かかった大規模な反乱がきっかけです。ところで,殷を滅ぼしたのはだれか覚えていますか?
「はい!」
じゃあ,そこの坊主
「せんせー,これ,クルーカットです。モデルはアメリカの海兵隊です」
じゃあ,そこの海兵(マリーン),答えは? センパーファイ!(常に忠誠を)
「周の文王(ぶんおう)です,軍曹。センパーファイ!」
惜しい。実際に殷を滅ぼしたのはその子の武王(ぶおう)の方です。お父さんの文王はその仁徳で周の声望を高めて,殷周革命の下地をつくった人ですね。あと,易(えき)の六十四卦をつくったりしています。
「易? 易とはなんですか,軍曹」
まだつづけるんですね……。占いの一種です。『当たるも当たらぬも八卦』のやつ。八卦に八卦をかけて六十四卦です。さて,武王は殷の紂王を牧野で破ったあと,早々に亡くなります。あとを継いだのが幼い成王と周公旦(しゅうこうたん)です。周公旦は,周の基礎を築いた人で,のちに孔子のアイドルになります。孔子は夢に周公旦が出て来なくなっただけで,ずいぶんと落ち込んでいます

「で,その人が封建制をはじめたんですか?」
そのとおりです! 素晴らしい。武王の死後,周公旦が幼い成王に代わって実権を握ると,武王を中心にまとまっていた周の陣営に亀裂が入り,その隙を突いて殷の残存勢力が大規模な反乱を起こしました。周公旦はこれを何とか鎮圧したのち,
  1. 紂王の庶子の微子(びし)を『宋』の地に封建して殷の祭祀を引き継がせ,
  2. 武王の末弟の康叔(こうしゅく)を殷の中心地だった『衛』の地に封建して殷の民を統治させ,
  3. 殷の民のうち最も反抗的なものを現在の洛陽の地に強制移住させて洛邑(らくゆう)を建設しました。
これが封建の初例です。もと殷の民を監視して,反乱を起こさせないという意図で始まったわけです。なお洛邑は西周第二の都となります。第一の都が現在の西安の地にほど近い鎬京(こうけい)で,第二の都が洛邑(らくゆう)です

「せんせー,『封建する』って,具体的にどうするんですか?」
いい質問しますね。周王は宗族の1人,自分の弟や叔父や従兄弟を選んで諸侯とし,封土として与えた土地に送り出します。このとき,その土地にはまだ邑=都市はできていません。送り出された諸侯が開墾して,そこに邑を建設します。もちろん1人では何もできないので,周王は支配下の民を一族単位でいくつか一緒に送り出します。例えば,康叔を封建するときにはもと殷民の7つの氏族(陶氏・施氏・繁氏・錡氏・樊氏・饑氏・終葵氏)を分け与えています。封建とは,移民でもあったわけです。封土に到着した諸侯は,率いていてきた民とともに,祖先を祭る宗廟(そうびょう)と,土地神と穀物の神を祭る社稷(しゃしょく)を建て,邑の建設予定地の四方に版築の技法で,つまり土を盛って,境界線を引きます。この“土を盛って邑の境界を定める”ことを『封(つちもり)す』と呼びます。このあと,諸侯は邑を建設して,自分の国とするわけです。というわけで,『封建する』とは,(つちもり)させて,諸侯国をてさせることです
「一族を送り出して,新しい国をつくらせたわけですね」
そのとおりです。要するに,分家ですね。周王にとって信頼できるのは血のつながった一族ですから,次々と分家して一族の国を隅々にまで作ることで,天下を統治しようと考えたわけです。諸侯国を『藩』と呼びますが,これは周王室を守る垣根=藩屏(はんぺい)という意味です


〈分家の分家,分家の分家の分家が身分秩序をつくる〉
 周王室は『姫(き)』を姓とします。周王の跡継ぎは長男であり,長男と次男や三男との間には優劣がつけられました。これを『長幼の序』と呼びます。もちろん正室の産んだ嫡子(ちゃくし)と側室の産んだ庶子(しょし)との間にも厳密な差が設けられました。こうした細かな決まりを宗法(そうほう)と呼びます。僕らにとってはなんとなく常識に感じますけど,封建制を維持するためにつくられた道徳だったわけです。

  1. 周王の地位は嫡子かつ長男(長嫡子)が継承し,宗廟と社稷を引き継いで祭祀を続けます。
  2. 周王の実弟(次男以降の嫡子)と異母兄弟(庶子)は封土(公邑)を与えられて諸侯となります。要するに,分家です。このとき,周王室=本家を『大宗』,諸侯=分家を『小宗』と呼びます。
  3. 諸侯の地位はその長嫡子が継承し,宗廟と社稷を引き継いで祭祀を続けます。また封邑の名前を氏としました。例えば,衛に封建された康叔の子孫は『衛』を氏とし,魯に封建された伯禽(はっきん)の子孫は『魯』を氏としました。諸侯には『姫』姓のほか,『衛』氏や『魯』氏といったもう1つのファミリーネームがあったわけです。
  4. 諸侯の実弟と異母兄弟は封土(采邑)を与えられて卿・大夫になりました。これも分家です。このときは諸侯=本家で大宗,卿・大夫=分家で小宗です。この卿・大夫も,はじめは『公子』(諸侯の子),『公孫』(諸侯の孫)と名乗りますが,その後は邑の名前を氏としました。
  5. 卿・大夫の地位は嫡子の長男が継承し,その実弟と異母兄弟は士になります。
  6. 士の地位は嫡子の長男が継承しますが,残りはすべて庶人=一般人になります。なお士までが貴族階級です。上級貴族が卿・大夫,下級貴族が士です。
 このように,分家を繰り返して,周王→諸侯→卿・大夫→士という階層型の社会構造をつくりました。宗法では,大宗(=本家)は小宗(=分家)の上に位置づけられていたので,周王→諸侯→卿・大夫→士はそのままピラミッド型の身分秩序になりました。周王の方が諸侯よりも地位が上であり,諸侯の方が卿・大夫よりも地位が上……というように。
 中国の封建制が血縁関係=宗族関係を基礎にする,と説明されるのはそのためです。西洋の封建制度とはずいぶんと違いますよね。


〈異姓諸侯をどうするか〉
 さて,同姓諸侯ばかりで,すべて『姫』姓一族なら問題ないわけですが,実際は功臣も諸侯にしましたから,この本家・分家関係=宗法が通用しない異姓諸侯もいるわけです。それでは,彼らをどうすればよいのか。
 周王は彼らと姻戚関係を結ぶことで,この問題をクリアしようとしました。娘と異姓諸侯を結婚させることで,彼らを『娘婿』にして,『義理の父』としてその上に立ったわけです。ちなみに,王室から『姫』姓の女性が続々と異姓諸侯のもとに送り込まれたので,いつしか王女のことを『姫(ひめ)』と呼ぶようになりました。

2016年5月28日土曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 封建制とは 




〈封建制と封建制度〉
今日は中国史の重大テーマ,封建制(ほうけんせい)についてお話ししましょう。ところで,みなさん,『封建制』って聞いたことがありますか?
「御恩と奉公!」
「土地!」
「いざ,鎌倉!」
「武士!」
「せんせー,西洋の騎士は?」
「封建制度って,ゲルマンの従士制とローマの恩貸地制が融合して生まれたものですよね?」
「それはフューダリズムのことだろ」
「違うよ,レーン制のことだって。一緒にしちゃダメだよ」
「どっちも同じ封建制度を指す言葉だけど,レーン制は“土地を媒介とした主君と臣下の関係”を説明しているものの,領主対農民の支配隷属関係を含んでいないのが問題だ。これまでの歴史は階級闘争の歴史だった。特権階級の領主と,彼らから搾取され虐げられた農民との対立関係を抜きの概念なんてまったく意味が……」
はい! ストップ! そこまで。えーと,……あなたがた,自分たちの設定が小学生ってこと,覚えてますか? しかも,ひとりマルクス主義者が混じっていましたね。設定を忘れないように
「はーい」
「せんせー,『封建制』って,西洋史でも日本史でも出てきますけど,同じ感じですか?」
いい質問ですね。西洋史の封建制度と日本史の封建制度は似ていますけど,それと中国史の封建制はまったく別物です。名前も,西洋史と日本史の方は『封建制度(ほうけんせいど)』,中国史の方は『封建制(ほうけんせい)』で,実は使い分けています
「せんせー,違いが微妙です!」
そうですね。西洋史の方をあえて『フューダリズム』とか『レーン制』と呼んで区別することもありますよ


〈封建制と封建制度の共通点〉
さて,まずは両者の共通点から見ていきましょう。封建制と言えば,何を思い出しますか?
「御恩と奉公!」
「土地!」
「いざ,鎌倉!」
はい。ありがとう。さっきと見事に同じですね。その通りですよ。まず武士あるいは騎士が君主から土地を与えられます。この土地を封土(ほうど)と呼びます。この封土から得る地代や租税が彼らの収入になります。封土を与えられた武士・騎士はこの主君から受けた御恩に対して,軍事的な貢献でお返しをします。これが奉公です
「ギブ&テイクですね」
そうなんです。主君に対する忠誠心なんて,サラリーを払っている間しか持ちません。金の切れ目が縁の切れ目。サラリーを払ってくれない君主なんて,バイバイです
「騎士なんて性悪女と同じですね。金の切れ目が縁の切れ目。貢いでくれない男なんて,バイバイ……」
その通りです! もう最悪です。これまで費やしてきたものを返せって話ですよね。記念日のたびにこっちがどれだけ努力して……
「返せって……。せんせー,割と引くー」
「ボクもー」
「こっぴどいフラれ方をしても,『素晴らしい思い出をありがとう』って言える器が欲しいよね」
「せんせー,大丈夫! きっと,もっといい人が現れるよ!」
そうですね。ありがとう。でも,先生にとって彼女は国士無双。忠誠心は揺らぎもしてないです
「……」
さて,さて,封建制度では,サラリーではなく土地なので,土地の切れ目が縁の切れ目になります。例えば,軍事的功績を立てながら,土地の加増がないと,武士・騎士たちはものすごく不満を貯めます。がんばったのに! と怒るわけです。場合によっては,もっといい人のところに行ってしまいます
「なんか,主君の立場って弱いんですね」
そうですね。臣下たちをつなぎとめるには,たえまなく加増しつづけるしかないわけですから。あるいは,50年も100年も前に土地を与えたことを,いつまでも思い出させて恩に着せつづけたりします
「うわぁ」
ね,引きますよね。西周の青銅器の多くは,実は恩を着せる目的で造られています。殷の青銅器よりも西周の青銅器の方が,鋳込まれている文字の数がどんどんと多くなっていって,中には毛公鼎のように500字近く鋳込まれたものも現れます。その内容は,簡単に言うと,かつて周王があなたの祖先に土地を与えたことを忘れるな,です
「一度,贈ったブランドもののバッグのことをいつまでも持ち出しては,『ね,あれ,使ってる?』とか聞いてくるケチな男と一緒ですね。もうとっくにヤフオクに出したっていうのに……」
それはそれで問題ですね。あと,明らかに設定忘れてますよね
「……」
さて,中国の封建制でも,周王が諸侯に封邑を与えて,諸侯はその御恩に対して軍事的貢献をしたり貢納したりして応えるわけですから,この点では西洋史と日本史の封建制度と変わりません
「じゃあ,どこが違うんですか?」


それはね……次の授業で


(つづく)

2016年5月25日水曜日

中国史/古代/秦

STEP 2            


 始皇帝 

 前221年,秦王政は最後の七雄「」を滅ぼして,天下統一を成し遂げます。七雄最初の亡国となった「韓」を滅ぼしてから,たった9年後のことでした。

 西周時代の初め,諸侯は800も割拠していました。その後,春秋時代に入るころには200まで数を減らし,戦国時代には7に絞られていました。いわゆる「戦国の七雄」です。その七雄の中で最後まで生き残ったのが秦でした。800チームも参加した長い予選を経て,戦国時代にビッグ・セブンによる決勝リーグが行われ,最後に秦が優勝して,800年も続いた大会が終わった感じです。

 彼は「王」を越える称号として「皇帝」を採用します。「三皇」の「皇」と「五帝」の「帝」を合わせたものです。彼は「○王」や「○帝」のような諡(おくりな)を嫌い,死後は単に「始皇帝」〈=最初の皇帝〉と称することにしました。諡とは,死後その生前の功業を讃えて贈る尊号であり,場合によっては「バカ王」とか「親殺し帝」と名づけられかねないので,それを拒否したわけです。勝手にあだなをつけられてたまるか,といったところ。彼は「後世は二世三世と数えて万世に至り、無窮に伝えることとす」としました。次の皇帝は自動的に「二世皇帝」,その次は「三世皇帝」です。なお「万世」まで伝えたいという彼の願いも虚しく、秦は3代15年で滅びました

始皇帝


 李斯  

 呂不韋失脚後,宰相となって始皇帝を支えたのが李斯(りし)です。商鞅と同じく法家の1人に数えられます。彼は,法家思想を集大成した韓非(かんぴ)とともに,儒家の荀子(じゅんし)に師事したこともあるという異色の経歴の持ち主です(儒家と法家なんて,水と油なのに)。

 この李斯を中心に,秦は中国全土を中央集権体制で統治する難事業に挑みました。

  1. 丞相(行政),大尉(軍事),御史大夫(監察)の設置。
  2. 郡県制:中国全土に拡大。全36郡(のち48郡まで拡大)。
  3. 馳道(ちどう)・直道(ちょくどう):道路網の整備および車軌の統一。
  4. 度量衡の統一
  5. 半両銭:貨幣の統一。方孔円銭。「半両」は重さで,約8g。
  6. 篆書(てんしょ):文字の統一。青銅器や石碑の銘文に使うような装飾的で非実用的な字体「大篆」を簡素化したもの。いわゆる「小篆」。
  7. 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ):思想統制。秦以外の歴史書,および,医薬・占い・農業技術などの実用書以外の書物を焼き払い,儒家を含む460名の学者を穴埋めに。
●丞相
 丞相・大尉・御史大夫の設置は中国版の三権分立です。宰相に権力が集中していた状況を改め,行政を丞相に,軍事を大尉に担当させて権力を分散し,そのうえ御史大夫にそれぞれをチェックさせました。皇帝を脅かす存在をなくすためです。

●郡県制
 郡県制は,商鞅の県制を全国に拡大したもので,行政単位として「郡」「県」を設置し,そこに「郡守」「県令」と呼ばれる官僚を派遣して,皇帝に代わって統治させました。日本だと,宮城登米といった形で,県の下に郡がありますが,中国の場合は南陽新野といった具合で,郡の下に県があります。「郡(ぐん)」は「群(ぐん)」と同じで,「県を集めたもの」=「県の群れ」という意味だそうです(あるいは,「県」は「懸」と同じで,「郡に懸けるもの」を意味するという説もあります。ちなみに「県」の旧字体「縣」は「斬りおとした首を木にかけたところ」の象形文字とのこと)。
封建制では,諸侯や卿・大夫に邑を与えてしまうので,統治も任せっきりです(当たり前ですね。封邑は王が諸侯にあげたものなので。王はもはや手出しできないわけです)。郡県制では,郡・県を官僚に与えるわけではありません。あくまで皇帝のものです。官僚は皇帝の手足となり,皇帝の指示通りに,その郡・県を治めます。問題はどのように指示を与えるかです。いまと違って電話もネットもありませんから,指示するにも早馬で2週間かかったりしました。というわけで,秦は膨大な量のマニュアルを作成して,そのマニュアル通りに統治させることにしました。このマニュアルを「」と呼んでいます。

●馳道・直道
 馳道は,まさに「馳せる道」で,秦の都咸陽(かんよう)と旧六国(斉・楚・燕・韓・魏・趙)を結ぶ幹線道路です。幅は「50歩」=約67.5m。三車線に分かれており,路面は地面よりも高く,版築の技法で突き固められていました。皇帝専用道路であり,横断することも禁じられていたとのこと。
 車軌は「車のわだち」で,戦国時代には各国はあえて車輪と車輪の幅を変えることで他国の馬車が自国内をスムーズに通行できないようにしていました。始皇帝はこのわだち〈=車軌〉の幅を統一することで,各国の道路を連結して道路網を整備しました。馳道を含め,道路網の総延長は12000kmに及んだそうです。
 また全国を網羅する道路網に加えて,直道も建設しました。首都咸陽(かんよう)から内モンゴルの太原郡(現在の包頭)まで,全長750km。幅30~50mで,側溝も路肩も備え,馳道と同じく版築の技法で突き固められていました(今でも直道は草木も生えていない状態で,その跡を容易に確認できます)。秦と敵対する遊牧民族匈奴(きょうど)の対策として,始皇帝が将軍蒙恬(もうてん)に命じ,10万人を動員して建設させました。これで,匈奴のいるところまで,スムーズに軍隊を送り込むことができます。建設に当たって「山を削り谷を埋めた」と『史記』にはありますが,これは誇張ではなく,勾配を最小限に抑え,可能な限り直線にするために,山を削り谷を埋めた跡が考古学的な調査でも確認できたそうです(『幻の道 直道』より)。

●度量衡の統一
 度量衡の統一は,商鞅がすでに行っていたものです。始皇帝は,この秦の度量衡を中国全土に拡大しました。確認しておくと,度量衡とは,「度」=長さ,「量」=体積(多さ),「衡」=質量(重さ)を指します。度量衡の統一とは,長さを測る「ものさし」,体積(多さ)を量る「ます」,重さを量る「はかり」の規格を統一することです。同じ「1升」でありながら,地域によって1.8リットルだったり2.0リットルだったりすれば,徴税にせよ何にせよ,混乱が起きます。そこで,始皇帝は標準器を作り,全国どこでも同じ長さの「ものさし」,同じ大きさの「ます」,同じ重さの分銅(はかりにのせるやつ)で計量できるようにしました。

●半両銭
 戦国時代には,刀銭,布銭,蟻鼻銭など,さまざまな青銅貨幣が流通しており,しかも国家が独占して鋳造しているわけでもなく,さまざまな民間業者が勝手に鋳造したりしていました。始皇帝はそこで貨幣鋳造権を国家で独占し,重さ半両(約8g),方孔円銭(円形で真ん中に四角い穴)の半両銭に貨幣を統一しました。戦国時代には,円孔円銭(円形で丸い穴)も発行したのに,方孔円銭に統一したのは,「天円地方」(天は丸く,地は方形)という中国の世界観にもとづいたからで,天下を治めているというメッセージがそこには込められているそうです。ちなみに,のち貨幣に鋳込まれる文字と言えば,元号になるのですが,半両銭には重さを表わす「半両」の文字が鋳込まれていました(そもそも元号自体がこのときにはありません)。

●篆書
 文字は,殷代の「甲骨文字」に始まり,西周の「金文」(青銅器に鋳込んだ文字),戦国時代の「大篆」を経て,より簡素化した「小篆」に統一されました。これを「篆書」と呼んでいます。でも,まだまだ装飾性が高く,煩雑で,非実用的でした。このころから「隷書(れいしょ)」が姿を現します。簡素で,実用的な文字です。やがて,この「隷書」から,僕たちにもおなじみの「楷書(かいしょ)」が生まれますが,それは後漢の話です。

甲骨文字(殷)→金文(周)→大篆(戦国)→小篆(秦)→隷書(秦から漢)→楷書(後漢)


●焚書坑儒
 始皇帝は,秦の記録以外の史書および医薬・占卜・農業技術書以外の書物を焼却し(焚書)、460名の学者を穴埋めにしました(坑儒)。
 前213年,儒家の淳于越(じゅんうえつ)という人物が,始皇帝に対して,今の郡県制を改め,昔の封建制に学び,始皇帝を支えるための諸侯王を置くべきだと主張しました。丞相の李斯は,これに反論します。戦乱の世をもたらした元凶は封建制だと。周の封建制には致命的な欠点があります。例えば,周王が自分の子を封じて諸侯にしたとします。当初は父である周王に感謝し,その恩に報いるために軍事や貢納の義務を喜んで果たします。しかし,周王と諸侯が死に,その子どもたちが封地を世襲すると,周王と諸侯の関係は「父と子」ではなく「伯父と甥」となります。両者の結びつきは弱くなり,御恩も遠い昔のこととなって感謝の気持ちも忘れがちになります。こうして,代替わりのたびに王と諸侯の関係は疎遠になり,御恩をますます忘れます。諸侯はもはや信頼できる臣下ではなく,単なる脅威になります。そんな脅威が800もあったので,結局,長い長いバトルロワイヤルが始まったわけです。李斯は淳于越に対して,「また戦乱をもたらす気か!」と反論しました。
 儒家の経典(詩経や書経)や諸子百家の書(墨子や老子)が民間にあれば,それらを持ち出して現体制を批判する連中(淳于越みたいな)がまた現れるかもしれない……そこで,李斯は焚書に踏み切り,「古を以て今を非(そし)る〈=昔のことを持ち出して現体制を非難する〉者は一族皆殺し」という厳しい法令を出しました。
 翌年,坑儒が行われます。坑儒とは,「儒家を穴埋めにする」という意味ですが,実際は妖言で人民を惑わした学者460人を穴埋めにしたのであって,儒家だけを弾圧したわけではありません。きっかけは詐欺事件でした。不老不死を心から求める始皇帝は,巨額の資金を費やして方士(神仙術の使い手)に不老不死の霊薬を探し求めさせていましたが,実は騙されていただけでした。これを知ってキレた始皇帝が,方士だけでなく学者も同類と見なして取り調べてみたところ,どいつもこいつもグダグダとわけのわからないのことを言って責任のなすりつけ合いをしているので,まとめて穴埋めにしたのです(十分にヒドい)。これを「坑儒」と呼び,あたかも始皇帝が儒家を目の敵にしたかのように事実を捻じ曲げたのは,後漢の儒家だそうです。

(つづく)

2016年5月20日金曜日

中国史/古代/秦

STEP 1            
  1. 戦国時代に終止符を打ったのは秦王政。  
  2. 秦は郡県制と呼ばれる中央集権体制で,中国全土を支配した。  
  3. 短命に終わった。  

STEP 2            

戦国の七雄」()のうち,他の六国を滅ぼして中国を統一したのは秦(しん)です。


 商鞅変法 

 秦が強くなったきっかけは商鞅変法(しょうおうへんぽう)です。「変法」とは政治改革のことで,戦国時代前期には魏の李悝(りかい)や楚の呉起(ごき),韓の申不害(しんふがい)など,多くの変法家〈=改革者〉が生まれ,おおむね封建制の弊害を排除し,法制度を整えて,君主を頂点に置く中央集権体制の構築を目指しました商鞅(しょうおう)はそうした変法家のひとりです。

 彼は秦の孝公(こうこう)に仕え,前356年と前350年の2度にわたって政治改革を断行し,法制度を整備して,中央集権体制を築きました。始皇帝よりも130年ほど前の人物ですが,その政策は,県制の施行,度量衡の統一焚書など,統一秦のものを先取りするような内容でした。

  • 県制小さな邑をまとめて「県」とし,令(長官),丞(補佐)を置く。封建制では,封建君主が封邑を自分のものとし,息子に相続させていた。県制では,「県」はあくまで中央のものであり,中央から派遣された県令が中央の指示通りに統治を行った。ちなみに,複数の「県」をまとめて「郡」を設置すると,「郡県制」になる。
  • 度量衡の統一:「度」は長さ,「量」は体積(多さ),「衡」は質量(重さ)を指す。「度」を測る「ものさし」,「量」を量る「ます」,「衡」を量る「はかり」を統一することを「度量衡の統一」と呼ぶ。今でも,重さの単位が「ポンド」だったり「キログラム」だったりすると,とても混乱するけど,当時も同じ。商鞅はそれを統一した。
  • 焚書:『韓非子』和氏篇に「詩書を燔(や)きて法令を明らかにす」とあって,商鞅が詩書を焼いたこと,それは法令を明確にするためだったことがわかる。

商鞅方升。上海博物館蔵。
実際に商鞅が度量衡を統一したときにつくらせた「ます」。左側面に商鞅が升の基準を定めたこと,右側面に始皇帝が天下統一したのち,度量衡を統一したことが刻まれている。つまり,商鞅の定めた升が始皇帝まで使われていたということ。感動。


 商鞅は法の運用を徹底するために,相手が孝公の息子であっても容赦なく「鼻そぎの刑」にしました(法に例外があってはならない)。そのせいで公族から怨みを買い,孝公の死後,「車裂きの刑」にされてしまいます。しかし,彼の作った法律・制度は受け継がれ,天下統一の基礎となりました。


 秦王政 

 名は「趙政(ちょうせい)」「嬴政(えいせい)」。前259年の月に生まれたので,「」と名づけられたとのこと。「高い鼻筋,細長い目,猛禽のような胸,山犬のような声で,恩情に乏しく,虎狼のような残忍な心の持ち主」だったそうです。

 父は子楚(しそ)といい,このとき趙に人質として送り出されていた秦の王子でした。この不遇の王子に目をつけたのが大商人の呂不韋(りょふい)です。彼は「奇貨居くべし」〈=こんなに優れた商品は手元に置いておかねばなるまい〉として,子楚を秦王にすべく巨万の富をつぎ込みます。奇貨とは,やがて必ず値上がりする投資商品のことです。
 子楚は趙の邯鄲(かんたん)に滞在している間,呂不韋の愛姫に惚れて彼女を所望します。呂不韋は「奇貨」を手放すわけにはいかないので,泣く泣く愛姫を子楚に献上しました。一年後,彼女は子どもを産みました。その子が政です。『史記』によれば,子楚が惚れる前に彼女はすでに呂不韋の子を妊娠しており,したがって政は呂不韋の子だと明言しています(ただし妊娠期間は「12か月」だったそうで,十月十日(とつきとおか)=約280日間をだいぶ超えています)。

 その後,子楚は首尾よく即位して荘襄王となり,次いで前247年に政が即位します。もちろん呂不韋は荘襄王と秦王政の二代に宰相として仕え,栄華を極めます。投資がものの見事にうまくいったわけです。




始皇帝の研究者と言えば,この人,という感じの鶴間和幸先生の著書。始皇帝の生涯を丁寧にたどりながら,これまでの研究成果や新資料を踏まえて,従来のものとは違う始皇帝像を復元します。劇的に変わるわけではないのが,よい感じです。冒頭で始皇帝の名前が「政」から「正」に変わったのはびっくりしましたけど。



 嫪毐の乱 

 前238年,嫪毐(ろうあい)の乱が起きます。「始皇帝の生涯で最大の内乱事件」(『人間・始皇帝』)です。

 嫪毐は呂不韋が後宮に送り込んだ宦官です。宦官(かんがん)とは,君主のお側にいて雑役に従事する去勢された男(生殖器を失った男)のことですが,嫪毐はひげを抜いてそう装っていただけで,実は立派なモノを持っており,車輪をひっかけて回せるほどでした。
 呂不韋が彼を後宮に送り込んだのは,自分の不倫に終止符を打つためでした。呂不韋の不倫相手は秦王政の母です。彼女はもと呂不韋の愛姫であり,二人の関係は政が王に即位したのちも続いていました。王の母〈=太后〉との不倫は,呂不韋にとって命取りになるスキャンダルです。そこで,嫪毐を送り込んで,彼女の気をそちらに移してしまおうと考えたわけです。ところが,嫪毐は太后との間に密かに二人の子をもうけたばかりか,政を排除して,その子を秦王にしてしまおうという陰謀を企てました。

 前238年,嫪毐は政が成人の儀を行う隙を突いて挙兵しました。これが嫪毐の乱です。しかし,わずか十日ほどで戦いに敗れて,彼とその一党は全員処刑されてしまいました。このとき,嫪毐と太后の関係だけでなく,呂不韋と太后の関係も発覚し,呂不韋もその罪を問われて処罰されました。秦王政が成人して親政を開始すると同時に,その父・荘襄王から宰相として政治の実権を握ってきた男が退場することになったわけです。なお彼が服毒自殺をするのは二年後のことでした。


(つづく)


2016年5月8日日曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 饕餮文 

「せんぱい,殷の青銅器ってかっこいいですよね」
「饕餮文(とうてつもん)とか?」

饕餮文。実は何の模様かわかっていない


「それもかっこいいですよね。饕餮(とうてつ)って,体は牛,顔は人,目はわきの下にあって,人を食らうそうです。まさかの逆ミノタウロスです。なんか,上半身の方が魚の『人魚』みたいですよね」
……前,見えるのかな
「たぶん,常に両腕を挙げて歩いてるんだと思います」
二足歩行なの?
「下半身だけ牛ってどうですか? ケンタウロスみたいに」
で,両わきを全開にするんだ
「近づいてくるとき,ちょっとリゾット・ネエロっぽくなりますよね」


俺はおまえに……近づかない


リゾットは近づかないけどな




ネタの宝庫。でも講義には役立たない。禹が人面魚身(足なし)の姿をした神だったとか。まさかの逆人魚。治水のときだけ「黄熊」に変身するって,もう「プーさん」としか思えない。ふだんは人面魚で,作業のときはプーさん……。


 殷の青銅器 

「殷の青銅器は祭器や酒器が主です。祭祀のときには酒が必須なので,酒器も祭器みたいなものですけど。祭祀用のせいか,装飾が妙に凝っていて,実用性をガン無視してる感じがいいですよね」
確かにゴテゴテしてるね
「あれ,鋳造で作ってるんです」
鋳造って,溶けた金属を型に流し込んで作るやつ?
「そうです」
高さが1mあったり重さが875kgあったりするのに,鋳型で作ってるんだ
「そうなんです。せんぱいが言っているのは,たぶん『后母戊鼎(こうぼぼてい)』のことですよね。中国で発掘された青銅器の中で最大のものです。殷墟で発掘されました。かつて『司母戊鼎(しぼぼてい)』と呼ばれていたものです」
なんで名前が変わったの?
「銘文に『司母戊』とあったので,『司母戊鼎』と名づけたんですが,『司』だと思っていた字が,よく見ると『后』だったそうです( 「人民網日本語版」2011年3月11日の記事より)。『ごめん,ごめん。読みまちがってたわ。そもそも王の母親のために造った青銅器なのに,『司母』って意味不明だと思ってたんだよね。わりぃ』……」
そんな態度とってたら,『ごめんは1回!』って怒られそうだよね
「まちがいないですね! この『后母戊鼎』は,高さ137cm,長さ110cm,幅77cm,重さは875kg。耳つきの風呂桶に四本脚をつけたような形をしています」

后母戊鼎。角ごとに饕餮文,耳部分には虎に食べられる人のレリーフがある


「もちろん,こんな大きなものを1つの鋳型で造るのは無理ですよ」
だよね。そもそも,875kgの溶けた青銅って,持ち上げるの,すげー大変だもんね
「70個のパーツに分けて,300人がかりで一斉に鋳造したみたいです。そのあと,パーツを合わせてくっつけたんですって」
想像もつかないけど,熱くて,重くて,相当な権力がないとそんなもの作らせられないことはわかった
「そこらの諸侯レベルでは,800kgを越える青銅を集めることもできなかったでしょうね」


 殷の紂王 

殷の青銅器はおおむね祭祀用のものです。人面文(じんめんもん)にせよ,饕餮文(とうてつもん)にせよ,虎文(こもん)にせよ,夔龍文(きりゅうもん)にせよ,見るものに恐怖を与えるために鋳込まれました」
祭政一致の神権政治ってやつだね
「そうです。エジプトのファラオみたいなものです」
でも,酒の飲みすぎで天罰が下ったんでしょ
「殷周革命の中心人物で孔子のアイドルの周公旦(しゅうこうたん)は『殷の民がこぞって酒を飲み、その酒の臭いが天にまで届いたので、天は殷を滅ぼすようにと天命を下したのだ』と言っています(『書経』酒誥)。殷の紂王(ちゅうおう)は酒浸りで,『七日七夜』にわたって酒宴つづけたそうですし(『新序』刺奢),『酒を以て池と為し,肉を懸けて林と為し』,裸の女性千人余りにその間を走らせた『酒池肉林』の逸話(『史記』殷本紀)でも有名ですよね」
酒池肉林って,夏の桀王じゃなかったっけ?
「両方です」
両方?
「紂王をモデルに桀王の逸話を作ったと考えられています。例えば,夏の桀王には彼をたぶらかした妹喜(ばつき)がいて,殷の紂王にも彼をたぶらかした妲己(だっき)がいます」
傾国(けいこく)の美女ってやつだね
「そうです。この二人に,周の幽王をたぶらかした褒娰(ほうじ)を合わせて三大傾国と呼んだりします。夏・殷・周,三つの王朝は,どれもこれも美女にたぶらかされて滅びたことになってるんです
女って怖いね
「せんぱいも気をつけてくださいね」

  1. 夏:桀王/妹喜/酒池肉林
  2. 殷:紂王/妲己/酒池肉林
  3. 周:幽王/褒娰

「紂王は『炮烙(ほうらく)の刑』でも有名ですね。銅の柱に油を塗り,炭火でちんちんに熱したあと,罪人にその上を歩かせるという刑で,柱を渡り切れたら無罪放免という約束だったのですけど,渡り切れたものはおらず,みな焼け死んだそうです」
無罪放免って夢を見せるあたりがひどいね

映画『カイジ~人生逆転ゲーム』より。地上74mの鉄骨渡り


「人が焼ける音と臭いを妲己は楽しんだんですって。これだけ聞くと,サディスティックな女だなと思いますけど,のちの呂后(りょこう)がやってみせた『人彘(じんてい)』とか,エリザベート・バートリの『鉄の処女(アイアン・メイデン)』とかの逸話を聞いたあとだと,割とましな方かもと思えてきます」
すっかり人間に絶望した目をしてるね
「……ま,こんなことを繰り返していたので,天下の諸侯はみな紂王を見限って,渭水盆地を治めていた西伯に心を寄せるようになります。この西伯こそ,のちの文王です。文王が志半ばで死んでしまうので,結局,紂王を倒すのはその息子の武王ですけど」
親子で文・武なんだね
「はい。このあと,紂王の叔父の比干(ひかん)が命がけて紂王を諫(いさ)めます。このままでは天命を失って,殷を滅ぼしてしまうぞ,というわけです。すると,

妲己「あら,この人,聖人として名高い方ですよね」
紂王「世間ではそう言われておるな」
妲己「陛下は疑っておいでなのですね。ふふ。わたし……聖人の内臓には七つの穴があるって話を聞いたことがあるんですけど……」
紂王「ほう。それは,それは。それでは,奴が本当に聖人かどうか確かめてみようか」

ということで,比干は解剖されてしまったそうです」
……聖人じゃなくても内臓に七つくらい穴が開いてそうだけど
「胃だけでも,入口と出口で二つありますものね。比干が解剖されるのを見て,もう一人の叔父の箕子(きし)は狂ったふりをしたそうです」
で,いよいよ武王が紂王討伐の軍を出したわけだ
「はい。周軍4万5000がなんと殷軍70万を牧野の戦いで破りました。殷軍の将兵は紂王のために命がけで戦う気はなかったわけです」
ずいぶんとジャイアント・キリングだね
「J2のチームがペップ監督時代の最強バルサを倒すようなものですね。モチベーションって大事だなと痛感しました」



2016年5月5日木曜日

中国史/古代/夏・殷・周

STEP 3             


 殷の始祖はツバメの子 

「せんぱい,殷の始祖は契(せつ)と言うんですけど,誕生秘話がなかなかのものなんです」
どんななの?
「契の母親の簡狄(かんてき)は,五帝のひとり帝嚳(こく)の次妃だったんですけど,ある日,川で水浴びをしていたところ,玄鳥(つばめ)が卵を落としていったんです」
巣に,じゃなくて?
「はい。巣に,じゃなくて」



スズメ目ツバメ科。全長約16cm。卵は長経2cm,短径1cmほど。



「で,その卵を拾って飲んだところ,契をみごもったんですって」
落ちてるものを食べたらダメって教わらなかったのかな
「教わってたら,殷王朝は始まらなかったでしょうね」
じゃあ,紂王の豪快なエピソードもなくなるわけだ
「残念ですよね!」
ところで,殷王朝って,なんで夏王朝に取って代わったの?


 夏の桀王 

「夏王朝の最後の王は,桀王(けつおう)と言うんですけど,この王がどうしようもない王で,殷の紂王とともに暴君の代名詞になってます」
どんなことをしたの?
「せんぱい,期待に満ちた顔をしてますね。ちょっと引きました。……ま,大したことはしてないですよ。征服した国から奪った絶世の美女――妹が喜ぶと書いて妹喜(ばつき)に入れ込んで,やたら豪華な宮殿を造営したり,ぜいたくの代名詞『酒池肉林』を楽しんだり,高価な絹を引き裂いたり……」
えーと,絹を切り裂く?
「女性の悲鳴のような,すごい音がするんですけど,その音を聞くと,妹喜が笑ったんだそうです」
? 悲鳴のようなのに?
「悲鳴のようなのに。桀王は彼女の笑顔を見るためだけに,高価な絹を次々と裂いてゴミにしたんです。それから,王の愚行を止めようとした関竜逢をまさかりで一刀両断にしてます」
なかなかパワフルだね
「そうなんです。で,結局,殷の湯王に殺されちゃうんです」


 殷の湯王 

湯王は殷王朝を開いた人です。彼は美味しいものの話を通じて料理人の伊尹(いいん)と仲良くなり,この伊尹に政治をすべて任せます」
大抜擢だね。平野レミさんが料理の話を通じて陛下に気に入られて,いきなり総理大臣に任命されるような感じでしょ
「そのとおりです! 決断力がすごいですよね!」
すごすぎるね
「ですよね! それから,まだ桀王と戦う前なんですけど,湯王が郊外をプラプラしていたら,ある男が網を張って,『上下四方の鳥たちよ,みな我が網にかかれい!』と祈っているところに出くわしたんです。そしたら湯王は『それじゃあ,鳥を獲り尽くしてしまうではないか』と言って,『右に行きたいものは右に行け。左に行きたいものは左に行け。我が命に従わぬものだけ,網にかかれい!』と祈らせたそうです。逃げろ,逃げたくない奴だけ網にかかれ,というわけです」
そんな鳥いるかな?
「さあ。そもそも言葉が通じないですよね。とにかく,これを聞いて諸侯は『湯王の徳は禽獣にまで及んでいる』と言って,感服したんだそうです」
じゃあ,夏の桀王は総スカンを食らってるし,逆に殷の湯王はみなから慕われているし……で,舞台は整ったわけだ
「そうなんです。湯王の戦車部隊がついに鳴条(めいじょう)の戦いで桀王を撃破しました」
戦車!?


これが開発されたのは第一次世界大戦のとき


「ゼッタイ違うのを想像してますよね。チャリオッツの方です」
チャリオッツ!?


これはシルバー・チャリオッツ。J.P.ポルナレフのスタンド


「なんか,まだ違うのを想像してる気がする。四頭立ての二輪馬車です。殷墟からも出土してますよ」
戦車が?
「馬もです」
そのころ,もう戦車があったんだ
「戦車が生まれたのは前2500年ころのメソポタミアで,シュメール人が初めて戦争に投入したそうです。ウルの軍旗(スタンダード)によれば,四輪で,兵士が上から投げ槍(ジャベリン)を投げていて,引いているのはロバだったそうです」
ロバ!?
「ともかく,この戦車が1000年くらい時間をかけて中国まで伝わったわけです。中国で初めて戦車を使ったのが殷だと言われています」
じゃあ,夏は桀王の暴虐うんぬんは抜きにして,この最新軍事テクノロジーに敗れたわけだ
「そうなんです」


2016年5月4日水曜日

中国史/古代/夏・殷・周


STEP 3             

シーナ,王懿栄の話ってかっこいいな
「井戸に投身自殺するところとか?」
外国の軍隊に首都を蹂躙されたから自殺ってさ,憂国の士って感じでかっこいいよね
「ですよねー。民衆を飢えから救うために,責められるのを覚悟で国庫を開いた劉鶚もかっこいいですよね」
かっこいい!
「でも,劉鶚がたまたま漢方薬の『竜骨』に書かれた甲骨文字を見つけたって下り,あれ,ウソだそうです」
えー
「ニュートンのリンゴと同じで,甲骨文字発見の逸話をドラマチックに仕立てたんじゃないかって言われてます」
残念……小説の題材とかになってるのに
「ま,よく広まってる話ってそんなものですよね」





原始時代から春秋戦国時代までを扱う中国古代史の名著。専門的になりすぎず,概説すぎてもいない絶妙なバランス。



 黄帝と蚩尤 

夏・殷・周の前の話って,黄帝とか堯・舜とかいろいろ名前が出てきて,よくわからないんだけど
黄帝(こうてい)とかかっこいいですよ。ライバルの蚩尤(しゆう)と大戦争をするんですけど,この蚩尤もかっこいいんです!」
銅の頭に鉄の額のところとか?
「そうです! ……っていうか,せんぱい,けっこうどうてもいいこと知ってますよね。」
ほっとけ
「そもそも蚩尤は軍神で,斧,剣,戈,戟,鎧,楯,弓矢といった金属製の兵器を開発したとされています。人の身体に牛の頭と蹄を持ち,目は4つ,腕は6本……」
なんだそれ,勇者に退治されるレベルじゃないか

蚩尤。両手・両足・頭に武器を装備。


「そうなんです! ミノタウロスですよね」
誰かテセウスを!
「でも,蚩尤はミノタウロスを越えてますよ。数々の魑魅魍魎を召喚し,雨,風,靄,霧を自在に起こせるんです」
すごい!
「黄帝も負けてないですよ。額に角が生えてますし,虎,豹,熊,羆といった猛獣を操って戦わせるんです。ふたりの軍が――といっても魑魅魍魎v.s.猛獣軍団ですけど――涿鹿の野で衝突したときには,蚩尤が霧を起こして黄帝の軍を包み込んで,黄帝の兵士たちは右も左もわからなくなって混乱するんです」
虎とか豹とかなら,嗅覚で何とかなるんじゃね
「それはスルーで。……で,黄帝はこのとき,『指南車』と呼ばれる,常に南を向く方位磁針を開発して方角を知り,この苦難を乗り越えるんです」
……敵の位置さえわかればいいんだから,方角は関係なくね
「それはスルーで。……ま,とにかく黄帝が勝利して,蚩尤は斬られることになりました。ちゃんちゃん」

なんか,ツッコミどころが多いなあ



 三皇五帝 

で,そろそろ堯・舜とかの話を教えて
「せんぱい,中国で最も有名な歴史書は?」
そりゃ,司馬遷(しばせん)の『史記』でしょ。武帝に大事なムスコを切られたから,その恨みをすべて歴史書編纂にぶつけたっていう
「なんか,いろいろ誤解させるなあ」
で?
「『史記』は歴史の始まりから司馬遷の生きた武帝の時代までを扱った歴史書です。じゃあ,何の話から始まるかと言えば,『五帝』の話からなんです」



訳本があるので,簡単に原典に当たれます。これって幸せなこと。逆に言えば,『史記』を日本語訳で読めるのに,これを読まずに中国古代史を語るのは論外って言われてしまいます。


五帝っていきなり強そうだな
「はい。五帝のラインナップは,筆頭が黄帝で,以下,頊顓(せんぎょく),帝嚳(こく),帝(ぎょう),帝(しゅん)と続きます」
黄帝は猛獣を操ったけど,それぞれ必殺技的な能力を持ってそうだね。『皇帝の眼(エンペラーズ・アイ)』とか。……あれ? 禹は『五帝』に入らないんだ?
「そうなんです。禹は五帝の時代を引き継いだ人物という位置づけです。いずれにせよ,『五帝』は神話や伝説のたぐいですね」
そりゃ,そうだろうね。虎だの羆だのを率いて,鉄の頭のミノタウロスと戦ったなんて,ぜったいウソだと思う

「五帝伝説の誕生には,戦国時代に生まれた五行思想の影響があると言われてます」
五行って,火・風・水・土の四大元素説の中国版?
「はい。五行説の場合は,木・火・土・金・水で,風がなくて,木と金が加わります。火属性のモンスターには水属性の武器や呪文で攻撃を加えるように,五行説でも,水属性のモンスターには木属性の武器や呪文で攻撃すると効果的です」
木属性の武器って,『こんぼう』とか『ひのきのぼう』? ラスボスが水属性だったら,すげえ困りそう
「わたし,素手で『りゅうおう』倒しましたよ」
すごい!
「とりあえず五行説が流行すると,なんでもかんでも五に合わせるようになるんです。色なら青・赤・黄・白・黒,方角なら東・南・中央・西・北,神獣なら青竜・朱雀・黄麟(黄竜)・白虎・玄武という感じで。それで,夏・殷・周の『三代』の前に『五帝』の時代があったことにして,バラバラに伝わっていた伝説の帝たちをその『五帝』に入れたんです。ですから,『五帝』のラインナップも本によってバラバラです」
そうなんだ

「そのあと,『五帝』の前に,さらに『三皇』の時代が付け加えられました。これもラインナップはいろいろですが,基本的に,天皇・地皇・人皇(あるいは泰皇)の三人で,天・地・人に合わせた神さまです。明らかに取ってつけた感があって,エピソードはフワフワしてます」
ま,名前がいきなりそんな感じだよね

「というわけで,まとめると……」



(写真はイメージです)
  • 三皇 (神話の時代。日本で言えば,アマテラスオオミカミとかスサノオノミコトのレベル
  • 五帝 (伝説の時代。高徳の聖王たちの時代
  • 夏・殷・周 (歴史時代。ただし夏は伝説


「という感じです」

ありがとう! 今日はここでお腹いっぱい



2016年5月3日火曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 甲骨文字の発見 


 甲骨文字は,亀の腹甲や牛の肩甲骨に刻まれた古代の文字です。

 その発見については,よくできた話があります。


 時は19世紀末。1899年のこと。清はイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本といった列強の進出に苦しんでいました。これらの国は中国を植民地にしようとしていました。

 清の国子監祭酒(東大総長兼文部科学大臣みたいなもの)の王懿栄(おういえい)は,このころ持病のマラリアに苦しんでいました。マラリアは,蚊を媒介として広がる伝染病で,感染すると1日おきや2日おきに40度近くまで発熱します。治療せずに放置すると,慢性化して,定期的に高熱に襲われるようになります。王懿栄のマラリアはすっかり慢性化していました。

 ある日,王懿栄はこのマラリアの治療薬として漢方薬の「竜骨」を試すことにしました。

もちろん伝説の生き物


「竜骨」とは,もちろん伝説のドラゴンの骨という意味ですが,実際は出土した化石獣骨だったそうです(化石,しかも動物の骨を粉にして飲むなんて、むしろ体に悪そうですけど)。この「竜骨」に「文字らしきもの」が刻まれていることに気づいたのが,食客の劉鶚(りゅうがく)という男でした。字(あざな)を「鉄雲」と言うので,劉鉄雲と書かれていることも多いです。食客とは,要するに居候のことで,劉鶚は王懿栄の家でタダ飯を食らいながら,金石学,水利学,数学,医学など,マルチに研究をしていました。だからこそ,竜骨に刻まれた「失われた古代文字」に気づけたわけです。

 王懿栄と劉鶚は,薬屋からありったけの「竜骨」を入手し,古代文字の研究を始めました。

 翌1900年,義和団事件が起きます。「扶清滅洋」を掲げた農民組織(拳法を身につけた集団で,呪文を唱えれば,銃弾でも跳ね返せると割と本気で信じていました)が,列強=外国勢力を中国から追い払おうとして首都北京に攻め上がり,外国公使館のある区域を包囲しました。これに対し,自国民を救出するため,列強八カ国の連合軍が中国に上陸し,北京を占領しました。このとき,団錬大臣(民間自警組織のまとめ役)を任されていた王懿栄は,これを憤り,毒をあおったのち,井戸に身を投げて自殺してしまいました。

 劉鶚も,義和団事件の混乱の中,政府に無断で国の備蓄米を放出し,民に分け与えて救済したので,その罪を問われて遠く新疆(しんきょう)に流されてしまいました。そうした苦難の中,彼は王懿栄とともに集めた「竜骨」の資料1058片分をまとめ,1903年に『鉄雲蔵亀』を発刊。この中で,「竜骨」に刻まれた文字を「甲骨文字」と名づけ,殷の王が占いに使ったものだと推定しました。

甲骨の「甲」はカメの甲。占いのためにどれだけのカメさんが……。ちなみに,お腹側の甲羅。


 劉鶚は1909年に亡くなりますが,このあと,羅振玉や王国維らの研究が続き,甲骨文字の多くが解読されることになります。



 殷墟の発見 

 問題は「薬屋がどこから『竜骨』を仕入れていたのか」です。


 薬屋の話では,河南省の田舎で農民が土の中から掘り出している,とのことでした。そこで,1928年,「竜骨」が出土する河南省安陽市小屯を本格的に発掘調査したところ,殷王朝第19代盤庚(ばんこう)から最後の第30代紂王(ちゅうおう)まで使われていた王都の遺跡群が見つかりました。

 これが「殷墟」です。殷の人々が「大邑商」と呼んでいた都です。

 ここでは,2万8000余片の甲骨文字資料が見つかり,それを解読した結果,殷王朝後期の系譜を復元できました。その内容は,驚くべきことに,殷滅亡からおよそ900年後に編纂された『史記』が載せる殷王朝の系譜と見事に一致しました。


 こうして殷王朝の実在が確認されたのです。


2016年5月1日日曜日

中国史/古代/春秋戦国

 戦国時代の社会経済的変化② 

 戦国時代の社会経済的変化は「宗族の崩壊」ともう1つあります。

 それは「商人の台頭」です。

 「士農工商」という言葉があるように,商人の身分は最下位でした。扱いは犯罪者とほとんど変わらないです。

 周が成立したのち,殷(商)の人々は自分たちの国を失い,各地を放浪していました。このとき,彼らは放浪先の魯(ろ)で手に入れた特産品を,次の放浪先の斉(せい)で売り払って生活費を得るという仕事を始めました。各地の都市(邑)に定住している人々は,殷(商)の人々がやって来ると,自分たちの地元では手に入らない珍しい物を手に入れ,代償として余っている物を彼らに渡しました(主流は物々交換。宝貝や子安貝の殻を貨幣として使う「貝貨」はありましたけど)。こうしたわけで,品物を売買することを「商業」,売買する人を「商人」と呼ぶようになった……という話があります。

 商人(殷の人)は「負け組」なので,出だしから周の人に蔑まれる立場にありました。そのうえ商人は,生産にまったく寄与せず,人が精魂込めて作ったものを,右から左に受け渡すだけで利益を得ているので,「盗人扱い」されました。運ぶだけなら無償でやれ,というわけです。

 物々交換経済で,商品の多くが農産物なので,交易の範囲はごく狭い範囲でしたし,商人の手元にはさほど利益は残りませんでした。何せ農産物はやがて腐敗するので,長距離運搬・長期保存には向かなかったのです。

 ところが,戦国時代に入り,青銅貨幣が用いられるようになります。諸侯は富国強兵のために競って青銅貨幣を鋳造したので,ずいぶんと普及しました。商人はアワだのコメだのを青銅貨幣に交換することで,たくさんの富を蓄積できるようになりました(アワをたくさん蓄えてもやがて腐るだけだけど,青銅貨幣ならいつまでも腐らないからです。錆びて青くなるけど)。

 ちなみに,受験では青銅貨幣の整理が頻出です。


  • 布銭 :韓,魏,趙 / 農具を象ったもの(凸っぽい
  • 円銭 :秦 / 「天円地方」を象ったもの(つまり円形。穴は四角
  • 刀銭 :斉,燕 / 刀を象ったもの
  • 蟻鼻銭:楚 / 蟻の頭を象ったもの(つぶつぶ


 考古学的調査をもとに青銅貨幣の流通範囲を復元すると,すでに地中海交易圏や北海・バルト海交易圏クラスの広大な交易圏が中国に生まれていたことがわかります。各国が商業育成に力を入れたこともあって,王を上回る権勢を誇る富裕な商人も生まれました。マンガ『キングダム』で有名になった,秦のキングメーカー呂不韋(りょふい)が有名です。

 これが「商人の台頭」です。

 戦国時代には戦争の主役も変わりました。それまで戦場に立てるのは,下級貴族の「士」以上の身分のものに限られており,彼らが操る「戦車」「弓矢」が戦争の主役でした(まさに「武士」の「士」)。ところが,戦国時代には徴兵制が広く行われ,農民が兵卒として動員されるようになります(そうでなければ,『キングダム』の主人公「信」は従軍できませんでした)。軍隊は文献で「六十万」「八十万」「百万」と表現される規模に拡大しました。農民が戦争の主役となり,一方,「士」は戦争の脇役に転じて,その役割を失います。

映画『英雄HERO』より。見るものを圧倒する軍隊。

 こうして,西周以来の封建的な身分秩序はすっかり崩壊しました。「士農工商」の「士」が没落し,「商」が成り上がったのがその象徴です。各国は封建制に代わるシステムを模索し,試行錯誤します。結局,秦がどこよりも早く「郡県制」と呼ばれる中央集権体制を完成させていくことになりますけど。

 なお,そうした中,各国を遊説して数々の政策を提案する集団が現れました。彼らを「諸子百家」と呼びます。



【関連】
戦国時代の社会経済的変化①「宗族の崩壊」編
[中国史]春秋戦国時代


中国史/古代/春秋戦国

 戦国時代の社会経済的変化① 

 戦国時代と言えば,社会経済の変化です。山川出版社の『詳説世界史B』にも,

「中国では春秋時代中期以降,鉄製農具の使用や牛に犂を引かせる耕作方法(牛耕)が始まって農業生産力がしだいに高まり,小家族でも自立した農業経営が可能となったため,氏族の統制はゆるんでいった。また戦国時代の富国策によって商工業が発展し,青銅の貨幣ももちいられるようになり,大きな富をもつ商人もあらわれた。このような社会経済の変化にともなって,周代の世襲的な身分制度はくずれ,個人の能力を重んずる実力本位の傾向がこの時代の特色となった。各国の内部では身分にとらわれない有能な人材の登用がおこなわれ,君主に権力が集中してくるのも,このような時代風潮と関連している。」
(山川出版社『詳説世界史B』)  

と取り上げられています。

 まずはポイント。

  1. 鉄製農具牛耕農法が中国社会に大きな変化を与えた
  2. 西周以来の社会秩序を支えていた宗族が崩壊した
  3. 実力本位の時代が到来し,やがて中央集権体制を生んだ
 

うーーーーーーー

 
 ちょっと大変だからがんばってくださいね。
 
 戦国時代に入り,「周代の世襲的な身分制度」,つまり西周以来の封建制が崩壊しました。そのあと,皇帝が万民を支配する中央集権体制が生まれます。

 それはなぜでしょうか。

 答えは「社会経済の変化が数百年続いた社会秩序を吹き飛ばしたから」です。

 封建制を支えていたのは宗族です。同じ氏姓の一族という意味でしたね。同じ祖先を共有しており,その祖先の祭祀を通じて結束する父系の血縁集団です(母方の家系は宗族には入りません。例えば,周王の娘〔姫姓〕が他姓の人間と結婚して息子を生んでも,その息子は周王と同じ宗族とは見なされません。その父親の宗族の一員と見なされます。また同じ宗族の人間と結婚して,父方の親戚も母方の親戚もみな同じ宗族だという事態も絶対に生じません〔同姓不婚の原則〕)。

 周王は同じ宗族の人間(叔父や従兄弟)に「邑」=封土(ほうど)を与えて諸侯とし,その土地の統治を任せました。王にとって最も信頼できるのが同じ一族の人間だからです。周王は諸侯にとって本家の当主(一族のリーダー)ですから,分家筋の諸侯はこの王に従うしかありません。宗族には宗法と呼ばれる鉄の掟があり,これが一族を結束させていました。

 王は一族を封建して諸侯を立て,諸侯も一族を封建して卿や大夫を立てました。諸侯が王に服従するのは,王が同じ一族で本家の当主だからです。卿や大夫が諸侯に従うのも,諸侯が同じ一族で本家の当主だからです。ですから,人々が宗族や宗法を意識しなくなると,諸侯は王に服従しなくなり,卿や大夫も諸侯に服従しなくなります。同族を殺してその財産を奪うなんてことも起きるようになります。

 みなさんも,自分に親戚がいて,彼らも一応「同じ姓を名乗る一族」だという意識はあっても,誰が一族の当主かはわからないし,「一族のために尽くす」なんて気持ちは持てないですよね。ところが,西周時代には,人々は自然と「本家の当主を敬い,その指導に従うべきだ」と思ってましたし,「一族の掟=宗法を守るのが当然だ」「一族のために尽くすのが自分の務めだ」と普通に思っていました。

 それは,一族みなで助け合わなければ,生き残ることができなかったからです。十人がかりで十二人分の食糧をどうにかこうにか作り出すような時代には,仮にどこかで作付けに失敗したり,洪水や日照りにあったり,戦争に巻きこまれたり,働き手が病気が倒れてしまったりと,ちょっとしたトラブルが起これば,いきなり餓死に直結しました。ところが,大きな集団で助け合えば,どこかが不作でもどこかは豊作かもしれませんし,あるいは,不作で困っている家に自分の家の食糧を分けてあげるとしても,負担は少しで済みます。

 生き残るには,宗族の助けが必須なわけです。



 ところが,戦国時代には,鉄製農具牛耕農法が普及して,生産力が大きく向上しました。これまで十人がかりで農作業をしていたのが,三人で済むようになったところを想像してください(極端ですけど)。一族総出で農作業をする必要もなくなり,五人程度の小家族でも十分に農業を営んでいけるようになりました。これを「小家族でも自立した農業経営が可能になった」と表現します。宗族みんなの力を借りなくても,もう大丈夫なわけです。人々の意識は「宗族」単位から「戸」単位になっていきました(親戚とか本家はどうでもよくて,自分の家族だけが大事)。みなさんの親戚に対する感覚に近くなったと思ってください。




 宗族なんてどうでもいい! 本家は分家に対してグダグダ言ってんじゃねえよ! となります。富国強兵を進める各国が,1つにかたまって住んでいた宗族に分家を強制し,辺境に送り出して開墾を進めたことも,宗族の崩壊に拍車をかけました。宗族がバラバラになって各地に分散してしまったのです。

 国としても,宗族単位では統治できなくなります。例えば,国が宗族のリーダーに租税を納めるように要請しても,他の宗族のメンバーがリーダーの言うことに従わないので,なかなか租税を集められません。結局,「戸」ごとに名簿を作って(これを「戸籍」と呼びます),それぞれから租税を集めるしかないわけです。

 こうして,宗族・宗法を基礎としていた西周以来の封建的な身分秩序は成り立たなくなりました。王や諸侯が「宗族」単位で人民を支配していたシステムが崩れ,王がダイレクトに(間に諸侯だの卿だのを挟まず)「戸」単位で万民を支配する中央集権体制が生まれることになります。

 というわけで,まとめ。

戦国時代には,①鉄製農具や牛耕農法が普及して生産力が向上し,②小家族による農業経営が可能になった結果,③宗族を基礎とする封建的な身分秩序が崩壊した。

ふむ


(「戦国時代の社会経済的変化②」につづく)


2016年4月30日土曜日

中国史/古代/新石器時代

 中国の城壁 





今日は中国の城壁についてお話ししましょう。ところで,みなさん,城壁はどうやって作ると思いますか?
「石!」
「レンガ!」
「日干しレンガ!」
「コンクリート!」
「『人は城、人は石垣、人は堀』」
みなさん,元気いいですね。だれひとり,主語・述語を備えた文ではなかったですけど。あと,ひとり武田信玄が混ざってましたね。でも,とにかく,そのとおりですよ。通常,城壁は石やレンガで作られます。中には,泥を固めて作った日干しレンガ製のものもあります。インカ帝国は間に紙も入らないほど精密に組まれた石の壁で有名ですし,日本のお城も,それと比べればかなり雑ですけど,だいたい石垣を備えています


熊本城。加藤清正の作った名城。残念ながら,石垣は崩れてしまいました。



中国の城壁は『版築』と呼ばれる技法で作られ……
「せんせい! 『ばんちく』って何ですか?」
食い気味に来ましたね。興味が先走りするのは良いところですよ。いま説明します



万里の長城。現在のものは明代に修築されたもの。全長21,196.18km。地球半周分。


中国を代表する黄河の中流から下流にかけては,大量の『黄土』が堆積しています。黄土というのは,砂よりも細かく,粘土よりは荒い土で,水に触れるとすぐ崩れます。黄河の上流にはその名も黄土高原という,黄土が表面を厚く覆っている高原があって,黄河はこの高原を流れるとき,黄土を容赦なく削っていきます。『水一石のうち六・七斗は泥』,つまり水を汲んでも六割がたは泥と言われるほど,黄河は大量の黄土を含んでいて,これを中流から下流にかけてせっせせっせと運んでいきます
「せんせい! ばんちくは? ばんちくー」
これからですよ。で,この黄土は水に触れるとすぐ崩れるくせに,突き固めるとものすごく強くなってカッチカチになるんです。カッチカチに
「ゾックゾクしますね!」
でしょう。要するに,黄河中下流域には豊富に黄土があるので,中国の人たちはこれを利用して城壁を作ったんです
「そろそろ,ばんちくですね! ばんちくー」
そうです! 『版築』というのは,まず木の板で四角い枠を作ります。そこに,黄土をどさどさと放り込んで,あとは人が上からぶっとい木の棒でドスッドスッと突き固めます。すると……。
「カッチカチ!」
そう。カッチカチです。カッチカチ。そうしたら,また黄土をどさどさと放り込んで,また上からドスドスと突きます。どさどさ,ドスドス,どさどさ,ドスドス……と,40回から50回ほど繰り返すと,高さ2~3mの城壁の完成です
「1回の作業で,5cmとか7cmくらいしか高くならないんですね」
それ,いま計算したんですか?
「はい」
そうですか。むむ。中国最古の『版築』跡は鄭州市の西山遺跡で見つかっています。前3300~前2800年ころの遺跡で,仰韶文化の終わりころです。幅4m,高さ2mほどで,作りも雑です。竜山文化期に入って,『竜山文化』の名前の由来となった山東省竜山鎮の城子崖遺跡では,かなり整った版築城壁になりました。層が相当キレイにできているそうです」
「ソウがソウ当キレイにできているソウです……」
何か言いたいことがあるんですか。……まあ,いいです。城子崖の城壁は周長1680m,高さ2~3mでしたけど,殷の初代湯王の都城とされる『鄭州商城』遺跡になると,周長7km,幅20m,高さ10mもある版築の城壁が姿を現しました。これだけの城壁を築くには相当な労力が必要だったはずです

  • 西山遺跡 / 仰韶文化
  • 城子崖遺跡/ 竜山文化
  • 鄭州商城 / 二里岡文化

始皇帝が築いたとして有名な『万里の長城』も版築で作られました。現在,見学できる長城は明代に作られたもので,焼きレンガで補強された頑丈で立派なものです。でも,始皇帝のころは泥を突き固めただけの,幅4m前後,高さ2mほどの粗末なものだったと言われています。いま確認されている長城は2万kmを越えますが,始皇帝のものはほぼほぼ跡形もなくなっているので,どれくらいの規模だったかもよくわかっていません

ここからなら見える


「せんせい! 万里の長城って月から見えるって本当ですか?」
絶対に見えないそうです。でも,国際宇宙ステーションからなら,上空約400kmのところを周回している程度なので,十分見えるそうですよ

「せんせい,割と子どもの夢クラッシャーですよね」

2016年4月29日金曜日

中国史/古代/春秋戦国

STEP 1             

  1. 周は犬戎の侵攻を受けて洛邑に遷都した。
  2. 東周時代はさらに春秋時代と戦国時代に分かれる。
  3. 戦国時代には「諸子百家」と呼ばれる思想家が活躍した。


STEP 2             

 周の東遷 

 前770年,周は「犬戎」と呼ばれる異民族の侵入を受けます。都の鎬京は陥落し,東方の洛邑(現在の洛陽)に遷都するハメになりました。この事件を「周の東遷」と呼びます。なお,中国史では,それ以前の,鎬京を都とした周を「西周」,洛邑遷都後の周を「東周」と呼び分けています。

 西周:都 鎬京
 東周:都 洛邑

 東周は,さらに「春秋時代」と「戦国時代」に区分されます。


 春秋時代 


春秋時代」は,孔子が編纂したとされる編年体の歴史書『春秋』にちなんだ名前です。始まりは前722年。『春秋』の記録がこの年から始まるからです。


 覇者 

 春秋時代の特徴は「覇者」です。
 東遷を機に,周王室の権威は失墜しました。周王が諸侯に号令をかけても誰も従わなくなったのです。諸侯たちは封土を受けた恩をすっかり忘れました。すると,諸侯の中で軍事力・経済力に優れた有力者が,周王に代わって号令をかけるようになりました。「覇者」とは,この有力諸侯を指します。覇者は他の諸侯に集合するよう号令し,「尊王攘夷」のスローガンのもと,集まった諸侯たちに,ともに周王室を尊崇し(尊王),力を合わせて蛮夷を攘(う)ち払う(攘夷)よう誓わせました。これを「会盟」と呼びます。一堂に会して盟約を結ぶという意味です。儀式の最後には,覇者が犠牲として神に供える牛の耳をとり,刃で傷をつけ,流れ出た血をすすって神に誓いました。ここから「牛耳をとる」→「牛耳る」という言葉が生まれたそうです。

 このころ,長江流域に「」という強国が生まれており,楚の君主は「楚王」を称して,自分は周王と対等の存在であるとアピールしていました(「鼎の軽重を問う」)。「攘夷」の「夷」とは,この楚王を指します。のち黄河流域の諸侯が楚王の号令に従うこともあったので,楚の荘王も覇者の1人になりました。それどころか,同じく「夷」の国とされる「呉」「越」(ともに長江流域)の,呉王夫差越王勾践も覇者になっています。この時代を代表する五人の覇者を「春秋の五覇」と総称しますが,そのメンバーは,斉の桓公晋の文公,楚の荘王,呉王夫差(あるいは,その父の闔閭),越王勾践で,五人中三人がなんと「夷」国の王です。


 戦国時代 


戦国時代」は,前漢の劉向が編纂した『戦国策』にちなんだ名前です。前403年に始まります。この年,晋の卿である韓氏・魏氏・趙氏が,周王から新しく諸侯として認められたことをきっかけとしています。


 下克上 


 戦国時代の特徴は「下克上」=実力本位の風潮です。
 春秋時代には「尊王攘夷」のスローガンに出ているように,周王の権威がまだ残っていました。覇者は周王を尊崇する姿勢を,形だけとはいえ,保っていました。ところが,戦国時代には,諸侯たちが「王」号を称するようになります。「戦国の七雄」と総称されるのビッグセブンは,いずれも王を称しました(楚王は春秋時代からずっと)。彼らは,周王と並ぶ存在,あるいは,周王に代わる存在だと,それぞれ自任していたわけです。王にふさわしい実力があれば,王号を称してもよい,諸侯にふさわしい実力があれば,主君を倒して新しく諸侯になってもよい――「下克上」〈=下位の者が実力で上位の者を超克する〉が,この時代の風潮でした。卿の韓氏・魏氏・趙氏が主君の晋氏を倒して新しく諸侯になったことを「戦国時代の始まり」と見なすのは,こうした理由からです。



(つづき)

戦国時代の社会経済的変化①「宗族の崩壊」編
戦国時代の社会経済的変化②「商人の台頭」編


世界史全般/古代

 都市って何? 

 都市と村落の違いって,そもそも何でしょう?

このころは都市とかはない


 人がたくさん住んでいれば,「都市」と言えるような気もします。でも,住民が数万人いたとしても,全員が農業従事者で,住んでいるのは粗末な家ばかりで,見渡す限り田んぼが続くような町を「都市」と呼ぶのは抵抗があります。

 そのような町なら「村落」とか「集落」と呼びたくなりますね。

 考古学の現場では,「人が住んでいた跡」と思われる遺跡を発掘するとき,それが「村落」なのか「都市」なのかが大問題になります。「都市」なら,そこに進んだ文明があったことになるからです。

 それでは,「都市」と定義するための条件とはいったい何でしょう?

 1950年,考古学者のチャイルドが「都市革命 Urban Revolution」論を唱え,そこで都市の条件を10項目挙げています。噛み砕いて表現すると,


  1. 大きくて,人がたくさん住んでいる
  2. 農業以外の職業(鍛冶屋や運送屋や商人)に従事する人がいる
  3. 余剰生産物(自分たちが食べる分以上に余分に作った農産物)を誰か(神官や王,あるいは,その両方を兼任している人)に納めている
  4. 神殿などの巨大な建造物がある
  5. 支配階級(肉体労働者ではなく知的労働者)がいる
  6. 文字記録がある
  7. 暦,算術,幾何学,天文学が発達している
  8. 芸術(壁画とか彫像とか)がある
  9. どこかと遠距離交易をして奢侈品や原材料を輸入している
  10. 支配階級(王や神官)に専門に雇われている職人もいる


これは都市。大聖堂もある

 チャイルドの考えは,①灌漑農業が始まり,②住民が食べきれないほどの食糧を生産できるようになると(余剰生産物),③住民全員が農業に従事しなくてもよくなるので,④農業以外の職業従事者(職人や商人)も生まれて「社会の分化」が進み(村落では全員が農民だけど,都市ではいろんな職業の人がいて,中には神官や王のような「人を支配すること」を職業とする人まで現れるということ),④やがて「都市の条件」がそろう,というものです。

 少なくとも,いきあたりばったりに大集落ができたのではなく,何らかの計画性があって,その計画をリードした人たち(支配階級)がいて,神殿やピラミッドのたぐいがあったら「都市」と考えてよいです。


都市計画


 中でも大事なのは「城壁」です。

 黄河文明で言えば,前期の仰韶文化期には,集落を濠(ほり)で囲って防御力を高めた「環濠集落」はありましたが(半坡遺跡),城壁はまだでした。でも,後期の竜山文化期に入ると,高さ2〜3mの城壁が姿を現します(城子崖遺跡)。

 中国古代史では,城壁で囲まれた集落を「(ゆう)」と呼びます。

 ここまで来ると「都市」と定義できるものも,ちらほら出てきます。前1800年ころのニ里頭遺跡では,宮殿と青銅器工房の跡も見つかっているので,これは「都市」です。時期的に考えて夏王朝(前2070〜前1800)の都の1つではないかと言われているのも,うなずけますね。

 というわけで,考古学者は今日も「都市」の遺跡を探し求めて,世界中で地面を掘っています。

2016年4月28日木曜日

中国史/古代/夏・殷・周

STEP 3             


 殷と商のちがいって   

シーナ,ちょっと聞いていい?
「なんですか,せんぱい」
殷って必ず『殷(商)』って書かれてるんだけど,この『(商)』ってどういう意味? カッコショウって。どっちも同じ?
「基本的には同じだけど,『殷』は王朝の名前で,『商』は都の名前なんです。甲骨文字では,殷の人々は自分たちのことを『商』って呼んでるから,彼らのことを商と呼ぶべきだ,という意見もありますよ。わたしは王朝の名前である『殷』で覚えるべきだと思ってますけど」

(写真はイメージです)


 王朝って何?      

……あの,今さらだけど『王朝』って,何?
「……」
ちょっと,その呆れた感じの目,やめてもらってもいい? なんか興奮する
「……王朝は,国王とか皇帝の地位を代々世襲する家系のことです。例えば,北朝鮮は,建国以来,金日成→金正日→金正恩と,三代にわたって国家元首の地位を世襲しているから,『金王朝』と呼ばれたりしてます。同じように,殷では,姓が『子』の家系が代々王位を世襲してました。この子姓の王朝を『殷』と呼んでます。ちなみに,次の周は姫姓の王朝です」
じゃあ,殷とか周っていうのは,国の名前じゃないんだ?
「違いますよ,せんぱい。フランス史で,フランク王国,メロヴィング朝,カロリング朝って習うじゃないですか。『フランク王国』が国の名前で,『メロヴィング朝』と『カロリング朝』が王朝の名前です。中国の場合は,国の名前はなくて,王朝の名前だけ勉強してるんです」


 禹ってだれ?      

「ところで,せんぱい,(う)ってかっこいいと思いません?」

(写真はイメージです)


歩いたあとが北斗七星になるところとか?
「そこもかっこいいですよね」
でもさ,伝説の聖天子の(ぎょう)は有徳者の(しゅん)に帝位を譲ったし,舜も有徳者の禹に帝位を譲ったけど,禹は実の息子に帝位を世襲させて夏王朝を開いたわけでしょ。堯・舜と比べるといちだん落ちる気がする
「なんか,王朝の概念にいきなりなじんでますね」
君のおかげだよ
「うわぁ……ま,ともかく,禹は舜の命を受けて天下中を回り,体をボロボロにしながら洪水対策を行うんですけど,そのときの部下の益(えき)にちゃんと帝位を譲ってるんです。禹が崩御してから,益は帝位を禹の子どもの啓(けい)に譲り,天下の人々も益より啓を支持したから,結果的に啓が帝位を世襲して夏王朝を開いちゃっただけなんです」
へえ……ちゃんと禅譲してたんだ。で,禹のどこがかっこいいの?
「ボロボロになったところ。あと,お父さんから生まれたところ」
お父さんから?
「そうなんです。禹のお父さんの鯀(こん)は,帝舜から洪水を止めるよう命を受けたんですけど,そのとき神さまから“限りなく増え続ける魔法の土”を盗んで堤防を作ったんです。でも,それでも洪水は止められず,そのうえ怒った神さまに石にされちゃうんです。三年後,誰かがなぜか石化した鯀の腹を刀で開いてみたら,中から赤ちゃんの禹が出てきたんです」
刀で? 石を? というか,なんでだろ
「不思議ですよね! ちなみに,禹があるとき熊に変化して,それを見て奥さんが逃げて石になっちゃうんです。禹が『オレの子を返せ!』って追いかけながら叫ぶと,奥さんの北側が開いて,中から息子の啓が出てきたそうです。親子二代で石から生まれるって,素敵ですよね」
いや,熊になって石になって啓が出てきてって,情報量が多すぎてついてけない
(参考:張光直著『古代中国社会――美術・神話・祭祀――』東方書店)


 ちなみに,堯・舜・禹は伝説の聖天子です。

 「五帝」のひとり(ぎょう)が帝位を息子に世襲させず,親孝行で有名だった(しゅん)に譲ったことを「禅譲(ぜんじょう)」と呼びます。舜も帝位を息子に世襲させず,治水に功績のあったに禅譲しました。禅譲は,天下万民の利益だけを考えた無私の徳行であり,堯・舜の名前を不朽のものにしました(誰だって財産を自分の息子に残したいもの。それをしなかった堯・舜はすごい! というわけです)。

 でも,禹は帝位を息子に世襲させて王朝を開いてしまったので,この点を後世に非難されることになります。『史記』の記述に従えば,ただの難癖ですよね。

(つづく)

イメージは,ぱくたそ(https://www.pakutaso.com/)さんのフリー素材を使わせていただいてます。