ラベル 世界史B の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 世界史B の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年1月16日木曜日

中国史/古代/漢

STEP 1            
  1. 秦滅亡後,天下統一をしたのは前漢の劉邦。  
  2. 前漢は郡国制と呼ばれる体制で,中国全土を支配した。  
  3. 武帝の時代に中央集権体制は完成した。  

STEP 2            

 陳勝・呉広の乱 
 
秦が滅ぶきっかけとなったのが,中国史上初の農民反乱陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)」です。陳勝も呉広も人名です。

陳勝(ちんしょう)は,雇われて他人の土地を耕す仕事をしており,社会の中で最も貧しい層に属していました。ある日,かたわらの仕事仲間に「オレは富貴になっても,おまえのことを忘れないからな」と言ったところ,「おまえ,雇われ労働者のくせに,何を言ってるんだ」と小馬鹿にされました。そのとき,陳勝が言ったのが「燕雀(えんじゃく)いずくんそ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」です。燕雀〈=ツバメやスズメ〉のようなちっぽけな鳥には,鴻鵠〈=オオトリやハクチョウ〉のような雄飛する巨鳥の志はわかるもんか,という意味です。


前209年,始皇帝が病死し,二世皇帝が即位してから一年後。北辺の守備のために兵士として徴発された900人の群衆の中に,陳勝と呉広がいました。秦の北辺は遊牧騎馬民族匈奴(きょうど)の脅威にさらされており,あちこちで徴兵が行われては最前線に配備されていました。陳勝・呉広を含む900人は,決められた集合場所に向かっていましたが,ある日,大雨で動けなくなり,期日内に到着することが不可能になりました。当時の軍法では,期日内に集合場所に現れなければ斬首と決められていたので,もう絶体絶命です。そこで,陳勝と呉広は「このまま殺されるくらいなら立ち上がろう!」とみなを煽動し,引率者の隊長を斬って,「王侯将相いずくんぞ種あらんや」──王・諸侯・将軍・宰相といった身分は「種」〈=生まれ〉によって定まるものではない! と励まし,陳勝自ら将軍となって挙兵しました。軍は瞬く間に膨れ上がり,貧農出身の陳勝がやがて王にまでのぼりつめました。まさに「王侯将相いずくんぞ種あらんや」です。


 楚漢戦争 

陳勝・呉広の乱をきっかけに天下は混乱し,各地に群雄が割拠します。そうした中,頭角を現したのが,名門出身の将軍項羽と下賤出身の劉邦でした。

はじめ項羽と劉邦はともに同じ主君に仕えて功を競いましたが,前206年,劉邦のほうが秦の都咸陽を落とし秦を滅ぼすという大功をあげます。項羽との関係はこれで徹底的に悪化。2人は敵味方に分かれて天下を争います。

前202年,「四面楚歌」の故事で有名な「垓下(がいか)の戦い」で,劉邦がライバルの項羽を倒し,天下を統一しました。貧民出身の男がとうとう皇帝にのぼりつめたのです。草履売りから皇帝になった劉備といい,乞食坊主から皇帝になった朱元璋といい,下賤出身の皇帝は彼だけではありませんが,それでも彼の出世ぶりはなかなかのもの。彼の廟号は高祖。帝号は高皇帝。新しい王朝の名前をといいます。前代の秦王朝と合わせて秦漢帝国と呼ぶこともあります。


 法三章 

始皇帝の秦と劉邦の漢は対照的な王朝です。

秦が過酷な政治,漢は寛容な政治。秦は3代15年の短命王朝,漢は中断期間を挟むものの29代およそ400年,前3世紀から後3世紀に及ぶ長命王朝。秦は法家思想,漢は儒家思想……。

秦が過酷な法治のせいで滅亡した話はすでにしました関連記事「秦の法運用の実際」関連記事「秦の滅亡」

一方,漢=劉邦の寛容な統治を物語るエピソードが「法三章」です。劉邦は秦を滅ぼしたのち,民がこれまで秦の細かい法律に苦しめられていたことをかんがみ,それまでの法律を撤廃。シンプルに「殺人,傷害,盗み」のみを禁じました。これを「法三章」と呼びます。もちろん民衆は大喜び。劉邦万歳です。

  • 細かく話すと,劉邦はこのときまだ楚の懐王の臣下であり,王はさきだって「先に咸陽を落としたものを,関中(咸陽を中心とする地域=秦の故地)の王にする」と約束していました。そこで,咸陽を落とした劉邦は関中の長老を集め,「長老の方々,みなさんはこれまで秦の法律に苦しめられてきた。わしは懐王との約束により,これから関中の王になる。そこで約束しよう。わしが王となった暁には法は三章のみとすると。『人を殺すものは死刑。人を傷つけたもの,盗みを働いたものは処罰する』,ただそれだけにし,秦法はみな撤廃する!」と約束しました。これで劉邦は長老の心をわしづかみにし,長老は劉邦以外が関中の王になることを恐れました。結果,長老たちの危惧どおり,項羽の横槍が入って劉邦は関中ではなく漢中〈=関中よりももっと南の僻地〉に飛ばされることに。なお劉邦の王朝が「漢」と呼ばれるのはそのためです。

実際に漢を建国したのちは,シンプルな法三章では治安を十分に維持できなかったので(当然です),劉邦が宰相の蕭何に命じ,秦の法律をもとに「九章律」を作らせました。したがって法制度的に,秦と漢はほとんど変わらないと言われています。


 匈奴 

前200年,高祖(位 前202~前195)は匈奴に大敗します。

匈奴」とは,中国の北方に暮らす遊牧騎馬民族で,このころ英主冒頓単于(ぼくとつぜんう)を得て,一大勢力に育っていました。なお名は冒頓。単于は称号で,中国でいえば「皇帝」に当たります。

遊牧騎馬民族のイメージは,定住せず,牧畜を生業とし,乗馬術に優れ,成人男子はいずれも優秀な騎兵であり,ときおり農村を訪れては交易したり略奪したりする感じです。その機動力を活かし,草原地帯(遊牧世界)から定住農耕地帯(農耕世界)に顔を出しては猛烈な暴力をふるい,また草原地帯に姿を消す──そんな存在です。

モンゴル高原─中央アジア─南ロシアを結び,ユーラシアを東西に横断する草原地帯こそが彼らの世界であり,匈奴,鮮卑,突厥,ウイグル,契丹,フン,アヴァール,マジャール,ブルガリア帝国,モンゴル帝国,セルジューク朝,マムルーク朝,オスマン帝国,オイラート,タタール,ジュンガル……世界史のメインプレーヤーがここから生まれます。世界史は遊牧世界が動かしているといっても過言ではありません。


前200年,冒頓単于が国境を犯し,高祖みずから大軍を率いて北上しました。

ところが,季節は冬。しかも天候は大荒れ。寒冷な気候に慣れていない劉邦の漢軍は,兵卒10人のうち2〜3人は凍傷で指を失うありさまで,戦争どころではありません。一方,いくさ上手の冒頓は,精兵を隠して自軍を弱く見せつつ,漢を恐れて退却したふりをし,劉邦を誘い出しました。気を良くして,北へ,北へと追う劉邦。いつしか漢軍の大部分を占める歩兵は置いてけぼりになり,劉邦は少数の車兵・騎兵だけで平城(山西省大同市)にまで進軍していました。

冒頓はこの機を逃さず,精兵40万を投入。孤立した劉邦軍を白登山で包囲しました。蟻も通さぬ厳しい包囲で,7日経っても劉邦は囲みを突破できません。食糧も水も尽き,飢えと渇きが漢軍を襲います。絶体絶命のピンチ。結局,冒頓の奥さん(匈奴では皇后ではなく閼氏と呼ぶ)に厚く贈り物をして口添えしてもらい,冒頓が彼女の言葉を受けて包囲の一角を空けたので,劉邦は危機を脱することができました。

ここで劉邦は匈奴に対して強硬策から懐柔和親策に切り替え,娘(といっても他家の女子を劉邦の娘と偽ったもの)を冒頓の妃として差し出して姻戚関係を結び,毎年,貢物を捧げて匈奴との衝突を回避することにしました。

和親策と消極的外交政策は,劉邦以降も受け継がれることになります。


(つづく)

2019年11月6日水曜日

受験世界史/センター世界史B対策

 シンプルな選択肢と複雑な選択肢 

センター世界史の特徴の1つは,選択肢がやたらシンプルという点です。

たとえば,センター以外の正誤問題の例を挙げると,


ウィーン会議およびウィーン体制に関する次の文章の中から,誤りを含む文章を1つ選びなさい。
  1. ウィーン会議で,オーストリア領ネーデルラントはオランダ領となったが,フランスの七月革命後に独立し,立憲王国となった。
  2. ウィーン会議後も,ドイツのブルシェンシャフトによる改革要求,イタリアの秘密結社カルボナリの蜂起など,自由主義的な改革を求める動きがつづいた。
  3. ウィーン会議後にラテンアメリカでは独立運動が相次ぎ,その結果,ハイチ共和国,ボリビア共和国,ペルー共和国などが成立した。
  4. ウィーン会議が採用した正統主義によりフランスではブルボン家による王政が復活し,ルイ18世を継いだシャルル10世は,オスマン帝国支配下のアルジェリアに出兵した。
(2019慶応経済) 

一見して選択肢ひとつひとつが長いし,複雑だなと感じるかと思います。

判定ポイントも,選択肢1は,

a) ネーデルラントはオーストリア領だったのか
d) 本当にオランダ領になったのか
c) 独立はフランス七月革命後か,それとも二月革命後か
d) 立憲王国,それとも立憲共和国?(つまりベルギー王はいたのか)

……とやたら多いです。


選択肢2は,

a) ドイツのブルシェンシャフトはウィーン会議直後(=革命の第1波)か
それとも七月革命後(=革命の第2波),二月革命後(=革命の第3波)か

b) イタリアのカルボナリの蜂起はウィーン会議直後(=革命の第1波)か
それとも七月革命後(=革命の第2波),二月革命後(=革命の第3波)か
  • 19世紀前半の歴史では,ある項目(例えば,コッシュートの独立運動とか マッツィーニのローマ共和国建設)が,革命の第1波(1815年〜),第2波(1830年〜),第3波(1848年〜),どのタイミングで起きたのかを判定させる正誤問題は頻出です。整理必須。
c) どちらも「自由主義的な改革を求める動き」と呼んでよいのか


選択肢3は,

a) ラテンアメリカの独立運動はウィーン会議後か
b) その独立国は,ハイチ共和国,ボリビア共和国,ペルー共和国でよいか


選択肢4は,

a)「正統主義」で正しいか
b) 復活したのは「ブルボン家」か
c) 王政復古最初の王は「ルイ18世」か
d) 「ルイ18世」の次が「シャルル10世」か
e) アルジェリアを支配下に置いていたのは「オスマン帝国」か
f) シャルル10世が出兵したのは「アルジェリア」か

と判定ポイントだらけです。「あれ,ヴァロワ家は?」「王政復古ってことは,処刑されたルイ16世の後継者ってことでしょ? あれ,ルイ17世は?」「アルジェリアってオスマン帝国の支配下だっけ? もう独立してない?」「あれ,チュニジア出兵かも?」「ルイ゠フィリップって,どのタイミングで出てきたっけ?」とか悩みはじめたら,もう終わりです。
  • 「ルイ17世」は,ルイ16世とマリー゠アントワネットの次男で,マリーから「愛のキャベツ」と呼ばれて可愛がられましたが,両親がギロチンで処刑された挙句,革命派の靴屋に預けられ,凄惨な児童虐待を受けたのち,わずか10歳で結核に斃れた,悲劇の王太子。「ルイ18世」はルイ16世の弟。

単に,ハイチがフランスから独立したのはまだナポレオンの時代(つまりウィーン会議前,正確には1804年)。ナポレオンは1803年に「ミシシッピ以西のルイジアナ」を格安でアメリカに売り,翌年にハイチも失って,西半球〈=新世界〉から撤退した……さえ覚えていれば,選択肢3が誤りだと気づけます。ハイチが中南米初の独立例であり,それがナポレオン戦争中だった(少なくともウィーン会議前だった)ことはセンターレベルの知識なので、見かけに反して解答はさほど難しくありません。

センター以外の正誤問題の場合,判定ポイントがとても多く,しかも「1830年,ベルギー独立」を覚えていたとしても,それが「王国」か「共和国」かまで知らなければ,明確な正誤判定ができません。「ウィーン会議のころ,ラテンアメリカで独立運動が活発化した」は覚えていたとしても,「ハイチ共和国,ボリビア共和国,ペルー共和国」と並べられると,戸惑うでしょう。

ハイチ(1804年 独立)
コロンビア(1810年 独立)
ベネズエラ(1811年 独立)
パラグアイ(1811年 独立)

ここまでがウィーン会議前

アルゼンチン(1816年 独立)
チリ(1810年 自治政府樹立 → 1818年 独立)
メキシコ(1810年 武装蜂起 → 1821年 独立)
ペルー(1821年 独立)
ブラジル(1822年 独立)
ウルグアイ(1830年 独立)

このあたりがウィーン会議後

ラテンアメリカの独立がウィーン会議前後に集中しているのは,独立運動の引き金が2回あったからです。1回目が1808年。ナポレオンの侵攻を受けてスペイン本国(ラテンアメリカに多くの植民地を所有)が大混乱に陥り,独立の絶好のチャンスを植民地側に与えてくれました。2回目が1820年。スペイン本国で自由主義革命が起き,自由主義=植民地支配から解放ということで,独立の気運が高まりました。10・11年独立組と21・22年独立組がいるのはそのためです。

というわけで,まとめ。

  1. センター以外の正誤問題では,判定ポイントがやたら多い。
  2. その多くが高度な判定を要求する(受験生は大混乱)。
  3. ところが,答えるためにはセンターレベルの知識(ハイチの独立はウィーン会議前)さえあればよい。
  4. つまり,そこら中にある「目くらまし」に惑わされず,確実に正誤判定できる判定ポイントを見つけ出せば,センターレベルの知識でも解ける(はず。少なくとも多くの問題は)。

2019年11月4日月曜日

受験世界史/センター世界史B対策

 意外に余裕の解答時間 

  1. 全36問
  2. 解答時間60分
  3. 単純計算で1問あたり1分40秒=100秒
「1分40秒」は,けっこう長めです。計算したり読解したりが面倒な数学・物理・国語・英語などと異なり,世界史は答えを覚えていれば秒で解けるからです。

たとえば,

「イスラーム神秘主義」を表す語として正しいものを選べ。

 ① ジハード ② バクティ ③ スーフィズム ④ シャリーア
(2014本試験) 

仮にうろ覚えでも,正解は ③ スーフィズム とわかります。

ジハード は「聖戦」,② バクティ はそもそもヒンドゥー教の言葉で,「神に対する絶対的な帰依・信愛」,④ シャリーア は「イスラーム法」を表します。

まさに秒で解けます。





 センター世界史の大半は4択正誤問題 
 
とはいえ,センター世界史の大部分が四択正誤問題です。選択肢の正誤を1つあたり25秒で判定することになります。

たとえば,

朝鮮半島の歴史について述べた文として正しいものを選べ。

① 高句麗・新羅・百済が並び立った時代は,三国時代と呼ばれる。
② 高麗は,大祚栄によって建国された。
③ 大院君は,欧米諸国の開国要求を受け入れた。
④ 李承晩政権は,日韓基本条約を結んだ。
(2019本試験)

これらの選択肢を1つあたり25秒で正誤判断します。もちろん,しっかり知識が定着している場合は,選択肢に目を通した瞬間に判断できます。

「高麗の建国者は王建じゃん。大祚栄は渤海の建国者でしょ」「大院君は開国要求を拒んで日本の征韓論を沸騰させた人じゃん。逆でしょ、逆。朝鮮が開国を拒んだから,日本は江華島事件を機に,武力で威圧して開国させたはず!」と,一瞬で②・③を消したりできます。

ところが,うろ覚えだと,「あ,日韓基本条約って戦後史の項目だ! 李承晩は確か韓国ができてすぐの大統領で……えっと,日韓基本条約もけっこう戦後すぐだった気がするなあ……」などと悩んでいるうちに,あっという間に25秒を使い果たします。

でも,大丈夫。

①②③あたりを平均8秒で判断していれば,まだ76秒も残っています。しっかりマークする時間を含めても,たっぷり1分は考えられるでしょう。日韓基本条約で,a)韓国は日本から多額の経済援助を受け,b)「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げた,c)それは日本の高度経済成長期(60年代)の少し後で,d)そのころさすがに李承晩ではなさそうだな(年齢的に)などと発想していけば,④は「誤りっぽい」と推測できます。

何か正誤判断の根拠になりそうなことを思い出すのがポイントです。




 はじめから100点を目指さない 

全項目,正確に覚えている必要はありません。

仮に,全36問のうち半分の18問がうろ覚えだったとしても,とりあえず選択肢を2つ消せれば,正解を選ぶ確率がきっちり五分五分(完全にランダム)だとしても,18問中9問は当たります。18問+9問=27問正解で,正答率75%です。

実際には,完全五分五分はありえないので,6:4か7:3くらいで正解を選べるでしょう。これで,36問中29〜31問正解,正答率80%越え(最大86%)。

そもそも得点9割を目標に定めれば,3〜4問は誤答しても大丈夫です。

計算すると,全36問のうち10問(約28%)がうろ覚えでも,確率的には90%を越えます。実感として,3問に1問程度,「あれ?」という問題があっても,90%は狙えるというわけです。これを4問に1問,5問に1問(7問はうろ覚えでもよい)まで改善できれば,何度かに1度は満点を取れるレベルに達します。

さすがに,100回受験して100回とも満点取れるレベルまで自分の知を鍛えるのは骨が折れます。世界史だけならまだしも,英語も数学も勉強しなければならないので,毎回9割越え,5回に3回は満点取れるレベルなら,もうそれ以上は求める必要なんてないのじゃないか,と思っています。