甲骨文字は,亀の腹甲や牛の肩甲骨に刻まれた古代の文字です。
その発見については,よくできた話があります。
時は19世紀末。1899年のこと。清はイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本といった列強の進出に苦しんでいました。これらの国は中国を植民地にしようとしていました。
清の国子監祭酒(東大総長兼文部科学大臣みたいなもの)の王懿栄(おういえい)は,このころ持病のマラリアに苦しんでいました。マラリアは,蚊を媒介として広がる伝染病で,感染すると1日おきや2日おきに40度近くまで発熱します。治療せずに放置すると,慢性化して,定期的に高熱に襲われるようになります。王懿栄のマラリアはすっかり慢性化していました。
ある日,王懿栄はこのマラリアの治療薬として漢方薬の「竜骨」を試すことにしました。
「竜骨」とは,もちろん伝説のドラゴンの骨という意味ですが,実際は出土した化石獣骨だったそうです(化石,しかも動物の骨を粉にして飲むなんて、むしろ体に悪そうですけど)。この「竜骨」に「文字らしきもの」が刻まれていることに気づいたのが,食客の劉鶚(りゅうがく)という男でした。字(あざな)を「鉄雲」と言うので,劉鉄雲と書かれていることも多いです。食客とは,要するに居候のことで,劉鶚は王懿栄の家でタダ飯を食らいながら,金石学,水利学,数学,医学など,マルチに研究をしていました。だからこそ,竜骨に刻まれた「失われた古代文字」に気づけたわけです。
王懿栄と劉鶚は,薬屋からありったけの「竜骨」を入手し,古代文字の研究を始めました。
翌1900年,義和団事件が起きます。「扶清滅洋」を掲げた農民組織(拳法を身につけた集団で,呪文を唱えれば,銃弾でも跳ね返せると割と本気で信じていました)が,列強=外国勢力を中国から追い払おうとして首都北京に攻め上がり,外国公使館のある区域を包囲しました。これに対し,自国民を救出するため,列強八カ国の連合軍が中国に上陸し,北京を占領しました。このとき,団錬大臣(民間自警組織のまとめ役)を任されていた王懿栄は,これを憤り,毒をあおったのち,井戸に身を投げて自殺してしまいました。
劉鶚も,義和団事件の混乱の中,政府に無断で国の備蓄米を放出し,民に分け与えて救済したので,その罪を問われて遠く新疆(しんきょう)に流されてしまいました。そうした苦難の中,彼は王懿栄とともに集めた「竜骨」の資料1058片分をまとめ,1903年に『鉄雲蔵亀』を発刊。この中で,「竜骨」に刻まれた文字を「甲骨文字」と名づけ,殷の王が占いに使ったものだと推定しました。
甲骨の「甲」はカメの甲。占いのためにどれだけのカメさんが……。ちなみに,お腹側の甲羅。
劉鶚は1909年に亡くなりますが,このあと,羅振玉や王国維らの研究が続き,甲骨文字の多くが解読されることになります。
殷墟の発見
問題は「薬屋がどこから『竜骨』を仕入れていたのか」です。
薬屋の話では,河南省の田舎で農民が土の中から掘り出している,とのことでした。そこで,1928年,「竜骨」が出土する河南省安陽市小屯を本格的に発掘調査したところ,殷王朝第19代盤庚(ばんこう)から最後の第30代紂王(ちゅうおう)まで使われていた王都の遺跡群が見つかりました。
これが「殷墟」です。殷の人々が「大邑商」と呼んでいた都です。
ここでは,2万8000余片の甲骨文字資料が見つかり,それを解読した結果,殷王朝後期の系譜を復元できました。その内容は,驚くべきことに,殷滅亡からおよそ900年後に編纂された『史記』が載せる殷王朝の系譜と見事に一致しました。
こうして殷王朝の実在が確認されたのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿