STEP3
秦の法運用の実態
秦の法運用の実態は,1974年に発掘された睡虎地秦簡(すいこちしんかん)や1984年に発掘された張家山漢簡(ちょうかさんかんかん)のおかげでずいぶんと明らかになってきました。
「秦簡」とは,秦の時代の竹簡(ちくかん)という意味です。「漢簡」はもちろん漢の時代の竹簡です。当時はまだ「紙」がなかったので,細長い竹(割り箸みたいなやつ)に文字を書いて紙がわりにしていました。この竹の棒を「竹簡」と呼びます。あとは,文字が書かれた竹棒をひもで縛ってすだれみたいにし,クルクルと巻いて「巻物」にしました。今でも本を1巻・2巻と数えるのはこのときの名残です。いま文庫本1冊に収まっている『論語』も30巻あったそうなので,本というのはずいぶんとかさばるものでした。
睡虎地秦簡も張家山漢簡もお墓に副葬されていたものです。こういうものを同時代史料と呼びます。
張家山漢簡によると,死刑には,①腰斬(ようざん),②磔(たく),③梟首(きょうしゅ),④棄市(きし)の4種があり,腰斬は腰部切断(なかなか死ねないのですごく痛い刑),磔ははりつけ,梟首はさらし首,棄市は市場に死体を放置です。ところが,実際に腰部切断などを行っていたわけではなく,①腰斬では受刑者の父母・妻子・同母兄弟も連座して死刑,②磔では受刑者の妻子も連座して労役刑,③梟首は連座なしで「さらし首」あり,④棄市では連座も放置もなし,と決められていました。要するに,腰斬といってもただ名前だけで,実際は連座の範囲を表していたわけです。思ってたより秦の刑罰は残酷ではなかったよ,というのが研究者たちの結論です。僕たちから見れば,十分,残酷に見えますけど。
そのほか多用したのが労役刑です。最も重い労役刑は「城旦(じょうたん)」といい,期限はなく,重い土木工事や危険な辺境の仕事に従事させられました。例えば,異民族の襲撃に怯えながら「万里の長城」を築くのは彼らの仕事です。また城旦を科せられた刑徒の妻子は奴隷身分に落とされましたし,罪に重さによって,①完城旦(肉刑なし),②黥城旦(+入れ墨),③黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ),④斬左趾黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ・左足切断),⑤斬右趾黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ・左足切断・右足切断)の等級がありました。女性刑徒の場合は黥まではありましたが,鼻削ぎや足の切断はなかったそうです。というわけで,思ってたより秦の刑罰は残酷ではなかったよ,というのが研究者たちの結論です。えっと,声を大にして言いたい。十分に残酷だと思う!
秦は,阿房宮(あぼうきゅう)とか,馳道・直道とか,万里の長城とか,驪山陵(りざんりょう)とか,多くの大規模土木事業を進めたので,多くの刑徒が必要になりました。秦は法を厳格に適用し,全国から刑徒を集めて,宮殿を築いたりお墓を掘ったり長城を連ねたりしていたのです。
旧六国の地域で反乱が相次ぐのも,当たり前のことでした。
参考資料:中国出土史料学会編『地下からの贈り物 新出土史料が語るいにしえの中国』東方書店
2016年6月14日火曜日
2016年6月13日月曜日
中国史/古代/秦
STEP 2
秦の滅亡
秦は15年で滅亡します。その原因は,①法家思想にもとづく厳格な政治,②民衆を苦しめた過酷な労役と対外戦争,にあったとされます。
厳格な統治
法家思想は「信賞必罰」を旨とします。法律の運用を少しでも緩めると,「法律を破ってもかまわない」というムードが生まれてしまうからです。例えば,信号無視は立派な法律違反ですが,歩行者や自転車が信号無視を繰り返したところで警察は見逃してくれますから,みなさんもすっかり信号無視を犯罪とは思わなくなっていますよね。同じように,多少遅刻しても事情を説明すれば許してもらえるとか,大事な仕事でも体調が悪ければ休んでもOKとか,そういった甘いことをつづけていると,モラルハザードが起きて,だれも決まりごとを守ろうとはしなくなるわけです。
秦は厳格な法運用を実施しました。統一後,旧六国(韓・魏・趙・斉・燕・楚)の民はあまりにも細かな法規定と厳しい罰則にうんざりします。
過酷な労役と対外戦争
『史記』始皇本紀には「隠宮,徒刑七十余万人をして,乃ち分けて阿房宮を作らせ或いは驪山を作らしむ」とあります。「陰宮」は宮刑(性器切断刑)を受けた囚人,「徒刑」は労役刑を受けた囚人のことです。
●阿房宮
秦の都は咸陽(かんよう)です。前350年に孝公が遷都して以来,ずっとここです。中心は渭水の北岸にあり,歴代秦王(始皇帝を含め8代144年)は,ここに宮殿を建設しつづけました。始皇帝も,六国を征服する過程で,国をひとつ征服するたび,その国の最も壮麗な宮殿を測量して,そのレプリカを咸陽につくらせました。そうした宮殿を「六国宮殿」と総称し,全部で145を数えました。1万を越える各国の美女がそこに集められていたそうです。
阿房宮(あぼうきゅう)は,始皇帝が渭水の南岸に新たにつくらせた宮殿で,前212年に着工しました。『史記』によれば,「東西500歩(690m),南北50丈(115m),その上には1万人を座らせることができ,その下には5丈(11.5m)の旗を立てることができた」とのこと。渭水北岸の宮殿群と渡り廊下で結ばれていました。当時,民間では,「阿房,阿房,秦を滅ぼす」と盛んに歌われており(『述異記』),この阿房宮こそが民衆の反乱を招き,秦滅亡の原因になったとされています。
●驪山陵
驪山陵(りざんりょう)は別名「始皇帝陵」。面積は56平方キロメートル。東京ディズニーランド約120個分です。約8000体の等身大陶製フィギュア=兵馬俑(へいばよう)で知られています。秦王に即位した翌年に造営を開始しました。
兵馬俑は素焼きの人形です。約8000体もありながら,ひとりひとり異なる顔をしており,実際の兵士をモデルに作成されたと考えられています。顔にはエラの張り方や頬骨の高さなどに民族の特徴が出ており,秦軍が多種多様な出自の兵士によって編成されていたことがわかります。同時に,青銅製の武器も出土していますが,中にはクロムメッキ加工を施されたものもあり,埋められてから2000年以上経っているというのに,さびていなかったそうです(ちなみにクロムメッキ加工は耐摩耗性・耐食性に優れたメッキ加工で,1937年にドイツで発明されました。なぜ,この時代にあったのかはなぞ)。
兵士をかたどった兵馬俑ばかりが有名ですが,文官をかたどった文官俑(ぶんかんよう)や芸人をかたどった百戯俑(ひゃくぎよう)なども発掘されています。そもそも,こうした俑(素焼きの人形)や青銅製の鶴や楽器などを埋めた穴を陪葬坑(ばいそうこう)と呼びます。全部で約200もあり,兵馬俑坑はそのうちの1つに過ぎません。そのほか,銅車馬坑,珍獣異獣坑,馬厩坑,動物坑,石鎧坑,百戯俑坑,文官俑坑,水禽坑(水禽は水鳥という意味)などがあります。いずれも始皇帝が死後の世界で必要とするものを俑や青銅でつくって埋めたと考えられています。動物率が妙に高いあたり,始皇帝は動物好きだったのかもと思わせます。
肝心の始皇帝の墓は,場所はわかっていますが,まだ発掘されていません。始皇帝の遺体が眠る墳丘(日本の古墳と同じように中国の墓も土を盛って丘状にします)は,二重の城壁に囲まれていて,墳丘の地下30メートルの部分には巨大な地下宮殿が横たわっています。『史記』によれば,水銀で天下の河川(黄河や長江など),海を再現し,墓室の天井には天文を,床には地理を描いたそうです。中華世界を地下に再現したわけです。実際,最新技術で調査した結果,地下に広大な空間があることもわかっていますし,地表面の水銀量を測ったところ高い数値が出ているので,ある程度『史記』の記述どおりの墓室が発掘されるのではないかと期待されています。
●万里の長城
万里の長城(ばんりのちょうじょう)は東西約5000キロ。モンゴル高原の遊牧民族「匈奴(きょうど)」などが,秦に侵入して来ないように建設したもの。そのころ,匈奴は頭曼単于(とうまんぜんう)という英主を得て,強大な勢力に成長していました。
前215年,燕人盧生(ろせい)という人物が「秦を滅ぼすものは胡なり」という預言書を始皇帝に献上します。胡とは,北方の異民族を意味し,ここでは匈奴を指します。そこで,始皇帝はさっそく将軍の蒙恬(もうてん)に命じ,30万の軍を与えて匈奴を討たせ,オルドス地方から彼らを追放しました。その後,前213年までに東の端から西の端まで万里の長城を建設し,匈奴が南下できないようにしました。黄土が豊富な地域では版築で,そうではない地域では平石を積み重ねて高さ4m,幅4mの長城を築きました。なお,万里の長城は秦が単独で建設したわけではなく,もともと北方にあった旧六国の趙や燕が築いていたものを修築してつなげたものです。
●対外戦争
前215年,蒙恬が30万の兵を率いて匈奴を討伐し,その翌年,屠睢(とすい)が50万の兵を率いて華南の百越(ひゃくえつ)を討伐しに向かいました。百越は浙江省・福建省など東シナ海沿いに暮らす海洋民族で,春秋時代に「越」を建国したことでも知られています。始皇帝は百越を討伐するために全長30kmの運河霊渠(れいきょ)を掘削して,湘水と離水という川をつなぎ,咸陽から水路で百越のいる華南まで行けるようにしました。屠睢は船に50万の兵士を乗せて,川伝いに華南に到達しましたが,そこで大敗。その後,趙侘(ちょうた)が指揮をとり,百越を征服して,南海(なんかい),象(しょう),桂林(けいりん)の3郡を設置しました。こうして秦の領域はベトナムのハノイにまで及ぶことになりました。
厳格な法治,重い労役,度重なる外征に民衆の不満は蓄積し,始皇帝の死後,ただちに陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)と呼ばれる農民反乱が起きます。これが秦滅亡の第一歩となりました。
秦の滅亡
秦は15年で滅亡します。その原因は,①法家思想にもとづく厳格な政治,②民衆を苦しめた過酷な労役と対外戦争,にあったとされます。
厳格な統治
法家思想は「信賞必罰」を旨とします。法律の運用を少しでも緩めると,「法律を破ってもかまわない」というムードが生まれてしまうからです。例えば,信号無視は立派な法律違反ですが,歩行者や自転車が信号無視を繰り返したところで警察は見逃してくれますから,みなさんもすっかり信号無視を犯罪とは思わなくなっていますよね。同じように,多少遅刻しても事情を説明すれば許してもらえるとか,大事な仕事でも体調が悪ければ休んでもOKとか,そういった甘いことをつづけていると,モラルハザードが起きて,だれも決まりごとを守ろうとはしなくなるわけです。
秦は厳格な法運用を実施しました。統一後,旧六国(韓・魏・趙・斉・燕・楚)の民はあまりにも細かな法規定と厳しい罰則にうんざりします。
過酷な労役と対外戦争
『史記』始皇本紀には「隠宮,徒刑七十余万人をして,乃ち分けて阿房宮を作らせ或いは驪山を作らしむ」とあります。「陰宮」は宮刑(性器切断刑)を受けた囚人,「徒刑」は労役刑を受けた囚人のことです。
●阿房宮
秦の都は咸陽(かんよう)です。前350年に孝公が遷都して以来,ずっとここです。中心は渭水の北岸にあり,歴代秦王(始皇帝を含め8代144年)は,ここに宮殿を建設しつづけました。始皇帝も,六国を征服する過程で,国をひとつ征服するたび,その国の最も壮麗な宮殿を測量して,そのレプリカを咸陽につくらせました。そうした宮殿を「六国宮殿」と総称し,全部で145を数えました。1万を越える各国の美女がそこに集められていたそうです。
阿房宮(あぼうきゅう)は,始皇帝が渭水の南岸に新たにつくらせた宮殿で,前212年に着工しました。『史記』によれば,「東西500歩(690m),南北50丈(115m),その上には1万人を座らせることができ,その下には5丈(11.5m)の旗を立てることができた」とのこと。渭水北岸の宮殿群と渡り廊下で結ばれていました。当時,民間では,「阿房,阿房,秦を滅ぼす」と盛んに歌われており(『述異記』),この阿房宮こそが民衆の反乱を招き,秦滅亡の原因になったとされています。
●驪山陵
驪山陵(りざんりょう)は別名「始皇帝陵」。面積は56平方キロメートル。東京ディズニーランド約120個分です。約8000体の等身大陶製フィギュア=兵馬俑(へいばよう)で知られています。秦王に即位した翌年に造営を開始しました。
兵馬俑は素焼きの人形です。約8000体もありながら,ひとりひとり異なる顔をしており,実際の兵士をモデルに作成されたと考えられています。顔にはエラの張り方や頬骨の高さなどに民族の特徴が出ており,秦軍が多種多様な出自の兵士によって編成されていたことがわかります。同時に,青銅製の武器も出土していますが,中にはクロムメッキ加工を施されたものもあり,埋められてから2000年以上経っているというのに,さびていなかったそうです(ちなみにクロムメッキ加工は耐摩耗性・耐食性に優れたメッキ加工で,1937年にドイツで発明されました。なぜ,この時代にあったのかはなぞ)。
兵士をかたどった兵馬俑ばかりが有名ですが,文官をかたどった文官俑(ぶんかんよう)や芸人をかたどった百戯俑(ひゃくぎよう)なども発掘されています。そもそも,こうした俑(素焼きの人形)や青銅製の鶴や楽器などを埋めた穴を陪葬坑(ばいそうこう)と呼びます。全部で約200もあり,兵馬俑坑はそのうちの1つに過ぎません。そのほか,銅車馬坑,珍獣異獣坑,馬厩坑,動物坑,石鎧坑,百戯俑坑,文官俑坑,水禽坑(水禽は水鳥という意味)などがあります。いずれも始皇帝が死後の世界で必要とするものを俑や青銅でつくって埋めたと考えられています。動物率が妙に高いあたり,始皇帝は動物好きだったのかもと思わせます。
肝心の始皇帝の墓は,場所はわかっていますが,まだ発掘されていません。始皇帝の遺体が眠る墳丘(日本の古墳と同じように中国の墓も土を盛って丘状にします)は,二重の城壁に囲まれていて,墳丘の地下30メートルの部分には巨大な地下宮殿が横たわっています。『史記』によれば,水銀で天下の河川(黄河や長江など),海を再現し,墓室の天井には天文を,床には地理を描いたそうです。中華世界を地下に再現したわけです。実際,最新技術で調査した結果,地下に広大な空間があることもわかっていますし,地表面の水銀量を測ったところ高い数値が出ているので,ある程度『史記』の記述どおりの墓室が発掘されるのではないかと期待されています。
●万里の長城
万里の長城(ばんりのちょうじょう)は東西約5000キロ。モンゴル高原の遊牧民族「匈奴(きょうど)」などが,秦に侵入して来ないように建設したもの。そのころ,匈奴は頭曼単于(とうまんぜんう)という英主を得て,強大な勢力に成長していました。
前215年,燕人盧生(ろせい)という人物が「秦を滅ぼすものは胡なり」という預言書を始皇帝に献上します。胡とは,北方の異民族を意味し,ここでは匈奴を指します。そこで,始皇帝はさっそく将軍の蒙恬(もうてん)に命じ,30万の軍を与えて匈奴を討たせ,オルドス地方から彼らを追放しました。その後,前213年までに東の端から西の端まで万里の長城を建設し,匈奴が南下できないようにしました。黄土が豊富な地域では版築で,そうではない地域では平石を積み重ねて高さ4m,幅4mの長城を築きました。なお,万里の長城は秦が単独で建設したわけではなく,もともと北方にあった旧六国の趙や燕が築いていたものを修築してつなげたものです。
●対外戦争
前215年,蒙恬が30万の兵を率いて匈奴を討伐し,その翌年,屠睢(とすい)が50万の兵を率いて華南の百越(ひゃくえつ)を討伐しに向かいました。百越は浙江省・福建省など東シナ海沿いに暮らす海洋民族で,春秋時代に「越」を建国したことでも知られています。始皇帝は百越を討伐するために全長30kmの運河霊渠(れいきょ)を掘削して,湘水と離水という川をつなぎ,咸陽から水路で百越のいる華南まで行けるようにしました。屠睢は船に50万の兵士を乗せて,川伝いに華南に到達しましたが,そこで大敗。その後,趙侘(ちょうた)が指揮をとり,百越を征服して,南海(なんかい),象(しょう),桂林(けいりん)の3郡を設置しました。こうして秦の領域はベトナムのハノイにまで及ぶことになりました。
厳格な法治,重い労役,度重なる外征に民衆の不満は蓄積し,始皇帝の死後,ただちに陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)と呼ばれる農民反乱が起きます。これが秦滅亡の第一歩となりました。
2016年5月25日水曜日
中国史/古代/秦
STEP 2
始皇帝
前221年,秦王政は最後の七雄「斉」を滅ぼして,天下統一を成し遂げます。七雄最初の亡国となった「韓」を滅ぼしてから,たった9年後のことでした。
西周時代の初め,諸侯は800も割拠していました。その後,春秋時代に入るころには200まで数を減らし,戦国時代には7に絞られていました。いわゆる「戦国の七雄」です。その七雄の中で最後まで生き残ったのが秦でした。800チームも参加した長い予選を経て,戦国時代にビッグ・セブンによる決勝リーグが行われ,最後に秦が優勝して,800年も続いた大会が終わった感じです。
彼は「王」を越える称号として「皇帝」を採用します。「三皇」の「皇」と「五帝」の「帝」を合わせたものです。彼は「○王」や「○帝」のような諡(おくりな)を嫌い,死後は単に「始皇帝」〈=最初の皇帝〉と称することにしました。諡とは,死後その生前の功業を讃えて贈る尊号であり,場合によっては「バカ王」とか「親殺し帝」と名づけられかねないので,それを拒否したわけです。勝手にあだなをつけられてたまるか,といったところ。彼は「後世は二世三世と数えて万世に至り、無窮に伝えることとす」としました。次の皇帝は自動的に「二世皇帝」,その次は「三世皇帝」です。なお「万世」まで伝えたいという彼の願いも虚しく、秦は3代15年で滅びました。
李斯
呂不韋失脚後,宰相となって始皇帝を支えたのが李斯(りし)です。商鞅と同じく法家の1人に数えられます。彼は,法家思想を集大成した韓非(かんぴ)とともに,儒家の荀子(じゅんし)に師事したこともあるという異色の経歴の持ち主です(儒家と法家なんて,水と油なのに)。
この李斯を中心に,秦は中国全土を中央集権体制で統治する難事業に挑みました。
●郡県制
郡県制は,商鞅の県制を全国に拡大したもので,行政単位として「郡」「県」を設置し,そこに「郡守」「県令」と呼ばれる官僚を派遣して,皇帝に代わって統治させました。日本だと,宮城県登米郡といった形で,県の下に郡がありますが,中国の場合は南陽郡新野県といった具合で,郡の下に県があります。「郡(ぐん)」は「群(ぐん)」と同じで,「県を集めたもの」=「県の群れ」という意味だそうです(あるいは,「県」は「懸」と同じで,「郡に懸けるもの」を意味するという説もあります。ちなみに「県」の旧字体「縣」は「斬りおとした首を木にかけたところ」の象形文字とのこと)。
封建制では,諸侯や卿・大夫に邑を与えてしまうので,統治も任せっきりです(当たり前ですね。封邑は王が諸侯にあげたものなので。王はもはや手出しできないわけです)。郡県制では,郡・県を官僚に与えるわけではありません。あくまで皇帝のものです。官僚は皇帝の手足となり,皇帝の指示通りに,その郡・県を治めます。問題はどのように指示を与えるかです。いまと違って電話もネットもありませんから,指示するにも早馬で2週間かかったりしました。というわけで,秦は膨大な量のマニュアルを作成して,そのマニュアル通りに統治させることにしました。このマニュアルを「法」と呼んでいます。
●馳道・直道
馳道は,まさに「馳せる道」で,秦の都咸陽(かんよう)と旧六国(斉・楚・燕・韓・魏・趙)を結ぶ幹線道路です。幅は「50歩」=約67.5m。三車線に分かれており,路面は地面よりも高く,版築の技法で突き固められていました。皇帝専用道路であり,横断することも禁じられていたとのこと。
車軌は「車のわだち」で,戦国時代には各国はあえて車輪と車輪の幅を変えることで他国の馬車が自国内をスムーズに通行できないようにしていました。始皇帝はこのわだち〈=車軌〉の幅を統一することで,各国の道路を連結して道路網を整備しました。馳道を含め,道路網の総延長は12000kmに及んだそうです。
また全国を網羅する道路網に加えて,直道も建設しました。首都咸陽(かんよう)から内モンゴルの太原郡(現在の包頭)まで,全長750km。幅30~50mで,側溝も路肩も備え,馳道と同じく版築の技法で突き固められていました(今でも直道は草木も生えていない状態で,その跡を容易に確認できます)。秦と敵対する遊牧民族匈奴(きょうど)の対策として,始皇帝が将軍蒙恬(もうてん)に命じ,10万人を動員して建設させました。これで,匈奴のいるところまで,スムーズに軍隊を送り込むことができます。建設に当たって「山を削り谷を埋めた」と『史記』にはありますが,これは誇張ではなく,勾配を最小限に抑え,可能な限り直線にするために,山を削り谷を埋めた跡が考古学的な調査でも確認できたそうです(『幻の道 直道』より)。
●度量衡の統一
度量衡の統一は,商鞅がすでに行っていたものです。始皇帝は,この秦の度量衡を中国全土に拡大しました。確認しておくと,度量衡とは,「度」=長さ,「量」=体積(多さ),「衡」=質量(重さ)を指します。度量衡の統一とは,長さを測る「ものさし」,体積(多さ)を量る「ます」,重さを量る「はかり」の規格を統一することです。同じ「1升」でありながら,地域によって1.8リットルだったり2.0リットルだったりすれば,徴税にせよ何にせよ,混乱が起きます。そこで,始皇帝は標準器を作り,全国どこでも同じ長さの「ものさし」,同じ大きさの「ます」,同じ重さの分銅(はかりにのせるやつ)で計量できるようにしました。
●半両銭
始皇帝
前221年,秦王政は最後の七雄「斉」を滅ぼして,天下統一を成し遂げます。七雄最初の亡国となった「韓」を滅ぼしてから,たった9年後のことでした。
西周時代の初め,諸侯は800も割拠していました。その後,春秋時代に入るころには200まで数を減らし,戦国時代には7に絞られていました。いわゆる「戦国の七雄」です。その七雄の中で最後まで生き残ったのが秦でした。800チームも参加した長い予選を経て,戦国時代にビッグ・セブンによる決勝リーグが行われ,最後に秦が優勝して,800年も続いた大会が終わった感じです。
彼は「王」を越える称号として「皇帝」を採用します。「三皇」の「皇」と「五帝」の「帝」を合わせたものです。彼は「○王」や「○帝」のような諡(おくりな)を嫌い,死後は単に「始皇帝」〈=最初の皇帝〉と称することにしました。諡とは,死後その生前の功業を讃えて贈る尊号であり,場合によっては「バカ王」とか「親殺し帝」と名づけられかねないので,それを拒否したわけです。勝手にあだなをつけられてたまるか,といったところ。彼は「後世は二世三世と数えて万世に至り、無窮に伝えることとす」としました。次の皇帝は自動的に「二世皇帝」,その次は「三世皇帝」です。なお「万世」まで伝えたいという彼の願いも虚しく、秦は3代15年で滅びました。
始皇帝
李斯
呂不韋失脚後,宰相となって始皇帝を支えたのが李斯(りし)です。商鞅と同じく法家の1人に数えられます。彼は,法家思想を集大成した韓非(かんぴ)とともに,儒家の荀子(じゅんし)に師事したこともあるという異色の経歴の持ち主です(儒家と法家なんて,水と油なのに)。
この李斯を中心に,秦は中国全土を中央集権体制で統治する難事業に挑みました。
- 丞相(行政),大尉(軍事),御史大夫(監察)の設置。
- 郡県制:中国全土に拡大。全36郡(のち48郡まで拡大)。
- 馳道(ちどう)・直道(ちょくどう):道路網の整備および車軌の統一。
- 度量衡の統一。
- 半両銭:貨幣の統一。方孔円銭。「半両」は重さで,約8g。
- 篆書(てんしょ):文字の統一。青銅器や石碑の銘文に使うような装飾的で非実用的な字体「大篆」を簡素化したもの。いわゆる「小篆」。
- 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ):思想統制。秦以外の歴史書,および,医薬・占い・農業技術などの実用書以外の書物を焼き払い,儒家を含む460名の学者を穴埋めに。
●丞相
丞相・大尉・御史大夫の設置は中国版の三権分立です。宰相に権力が集中していた状況を改め,行政を丞相に,軍事を大尉に担当させて権力を分散し,そのうえ御史大夫にそれぞれをチェックさせました。皇帝を脅かす存在をなくすためです。
●郡県制
郡県制は,商鞅の県制を全国に拡大したもので,行政単位として「郡」「県」を設置し,そこに「郡守」「県令」と呼ばれる官僚を派遣して,皇帝に代わって統治させました。日本だと,宮城県登米郡といった形で,県の下に郡がありますが,中国の場合は南陽郡新野県といった具合で,郡の下に県があります。「郡(ぐん)」は「群(ぐん)」と同じで,「県を集めたもの」=「県の群れ」という意味だそうです(あるいは,「県」は「懸」と同じで,「郡に懸けるもの」を意味するという説もあります。ちなみに「県」の旧字体「縣」は「斬りおとした首を木にかけたところ」の象形文字とのこと)。
●馳道・直道
馳道は,まさに「馳せる道」で,秦の都咸陽(かんよう)と旧六国(斉・楚・燕・韓・魏・趙)を結ぶ幹線道路です。幅は「50歩」=約67.5m。三車線に分かれており,路面は地面よりも高く,版築の技法で突き固められていました。皇帝専用道路であり,横断することも禁じられていたとのこと。
車軌は「車のわだち」で,戦国時代には各国はあえて車輪と車輪の幅を変えることで他国の馬車が自国内をスムーズに通行できないようにしていました。始皇帝はこのわだち〈=車軌〉の幅を統一することで,各国の道路を連結して道路網を整備しました。馳道を含め,道路網の総延長は12000kmに及んだそうです。
また全国を網羅する道路網に加えて,直道も建設しました。首都咸陽(かんよう)から内モンゴルの太原郡(現在の包頭)まで,全長750km。幅30~50mで,側溝も路肩も備え,馳道と同じく版築の技法で突き固められていました(今でも直道は草木も生えていない状態で,その跡を容易に確認できます)。秦と敵対する遊牧民族匈奴(きょうど)の対策として,始皇帝が将軍蒙恬(もうてん)に命じ,10万人を動員して建設させました。これで,匈奴のいるところまで,スムーズに軍隊を送り込むことができます。建設に当たって「山を削り谷を埋めた」と『史記』にはありますが,これは誇張ではなく,勾配を最小限に抑え,可能な限り直線にするために,山を削り谷を埋めた跡が考古学的な調査でも確認できたそうです(『幻の道 直道』より)。
●度量衡の統一
度量衡の統一は,商鞅がすでに行っていたものです。始皇帝は,この秦の度量衡を中国全土に拡大しました。確認しておくと,度量衡とは,「度」=長さ,「量」=体積(多さ),「衡」=質量(重さ)を指します。度量衡の統一とは,長さを測る「ものさし」,体積(多さ)を量る「ます」,重さを量る「はかり」の規格を統一することです。同じ「1升」でありながら,地域によって1.8リットルだったり2.0リットルだったりすれば,徴税にせよ何にせよ,混乱が起きます。そこで,始皇帝は標準器を作り,全国どこでも同じ長さの「ものさし」,同じ大きさの「ます」,同じ重さの分銅(はかりにのせるやつ)で計量できるようにしました。
●半両銭
戦国時代には,刀銭,布銭,蟻鼻銭など,さまざまな青銅貨幣が流通しており,しかも国家が独占して鋳造しているわけでもなく,さまざまな民間業者が勝手に鋳造したりしていました。始皇帝はそこで貨幣鋳造権を国家で独占し,重さ半両(約8g),方孔円銭(円形で真ん中に四角い穴)の半両銭に貨幣を統一しました。戦国時代には,円孔円銭(円形で丸い穴)も発行したのに,方孔円銭に統一したのは,「天円地方」(天は丸く,地は方形)という中国の世界観にもとづいたからで,天下を治めているというメッセージがそこには込められているそうです。ちなみに,のち貨幣に鋳込まれる文字と言えば,元号になるのですが,半両銭には重さを表わす「半両」の文字が鋳込まれていました(そもそも元号自体がこのときにはありません)。
●篆書
文字は,殷代の「甲骨文字」に始まり,西周の「金文」(青銅器に鋳込んだ文字),戦国時代の「大篆」を経て,より簡素化した「小篆」に統一されました。これを「篆書」と呼んでいます。でも,まだまだ装飾性が高く,煩雑で,非実用的でした。このころから「隷書(れいしょ)」が姿を現します。簡素で,実用的な文字です。やがて,この「隷書」から,僕たちにもおなじみの「楷書(かいしょ)」が生まれますが,それは後漢の話です。
甲骨文字(殷)→金文(周)→大篆(戦国)→小篆(秦)→隷書(秦から漢)→楷書(後漢)
●焚書坑儒
始皇帝は,秦の記録以外の史書および医薬・占卜・農業技術書以外の書物を焼却し(焚書)、460名の学者を穴埋めにしました(坑儒)。
始皇帝は,秦の記録以外の史書および医薬・占卜・農業技術書以外の書物を焼却し(焚書)、460名の学者を穴埋めにしました(坑儒)。
前213年,儒家の淳于越(じゅんうえつ)という人物が,始皇帝に対して,今の郡県制を改め,昔の封建制に学び,始皇帝を支えるための諸侯王を置くべきだと主張しました。丞相の李斯は,これに反論します。戦乱の世をもたらした元凶は封建制だと。周の封建制には致命的な欠点があります。例えば,周王が自分の子を封じて諸侯にしたとします。当初は父である周王に感謝し,その恩に報いるために軍事や貢納の義務を喜んで果たします。しかし,周王と諸侯が死に,その子どもたちが封地を世襲すると,周王と諸侯の関係は「父と子」ではなく「伯父と甥」となります。両者の結びつきは弱くなり,御恩も遠い昔のこととなって感謝の気持ちも忘れがちになります。こうして,代替わりのたびに王と諸侯の関係は疎遠になり,御恩をますます忘れます。諸侯はもはや信頼できる臣下ではなく,単なる脅威になります。そんな脅威が800もあったので,結局,長い長いバトルロワイヤルが始まったわけです。李斯は淳于越に対して,「また戦乱をもたらす気か!」と反論しました。
儒家の経典(詩経や書経)や諸子百家の書(墨子や老子)が民間にあれば,それらを持ち出して現体制を批判する連中(淳于越みたいな)がまた現れるかもしれない……そこで,李斯は焚書に踏み切り,「古を以て今を非(そし)る〈=昔のことを持ち出して現体制を非難する〉者は一族皆殺し」という厳しい法令を出しました。
翌年,坑儒が行われます。坑儒とは,「儒家を穴埋めにする」という意味ですが,実際は妖言で人民を惑わした学者460人を穴埋めにしたのであって,儒家だけを弾圧したわけではありません。きっかけは詐欺事件でした。不老不死を心から求める始皇帝は,巨額の資金を費やして方士(神仙術の使い手)に不老不死の霊薬を探し求めさせていましたが,実は騙されていただけでした。これを知ってキレた始皇帝が,方士だけでなく学者も同類と見なして取り調べてみたところ,どいつもこいつもグダグダとわけのわからないのことを言って責任のなすりつけ合いをしているので,まとめて穴埋めにしたのです(十分にヒドい)。これを「坑儒」と呼び,あたかも始皇帝が儒家を目の敵にしたかのように事実を捻じ曲げたのは,後漢の儒家だそうです。
(つづく)
2016年5月20日金曜日
中国史/古代/秦
STEP 1
- 戦国時代に終止符を打ったのは秦王政。
- 秦は郡県制と呼ばれる中央集権体制で,中国全土を支配した。
- 短命に終わった。
STEP 2
「戦国の七雄」(秦,斉,楚,燕,韓,魏,趙)のうち,他の六国を滅ぼして中国を統一したのは秦(しん)です。
商鞅変法
秦が強くなったきっかけは商鞅変法(しょうおうへんぽう)です。「変法」とは政治改革のことで,戦国時代前期には魏の李悝(りかい)や楚の呉起(ごき),韓の申不害(しんふがい)など,多くの変法家〈=改革者〉が生まれ,おおむね封建制の弊害を排除し,法制度を整えて,君主を頂点に置く中央集権体制の構築を目指しました。商鞅(しょうおう)はそうした変法家のひとりです。
彼は秦の孝公(こうこう)に仕え,前356年と前350年の2度にわたって政治改革を断行し,法制度を整備して,中央集権体制を築きました。始皇帝よりも130年ほど前の人物ですが,その政策は,県制の施行,度量衡の統一,焚書など,統一秦のものを先取りするような内容でした。
- 県制:小さな邑をまとめて「県」とし,令(長官),丞(補佐)を置く。封建制では,封建君主が封邑を自分のものとし,息子に相続させていた。県制では,「県」はあくまで中央のものであり,中央から派遣された県令が中央の指示通りに統治を行った。ちなみに,複数の「県」をまとめて「郡」を設置すると,「郡県制」になる。
- 度量衡の統一:「度」は長さ,「量」は体積(多さ),「衡」は質量(重さ)を指す。「度」を測る「ものさし」,「量」を量る「ます」,「衡」を量る「はかり」を統一することを「度量衡の統一」と呼ぶ。今でも,重さの単位が「ポンド」だったり「キログラム」だったりすると,とても混乱するけど,当時も同じ。商鞅はそれを統一した。
- 焚書:『韓非子』和氏篇に「詩書を燔(や)きて法令を明らかにす」とあって,商鞅が詩書を焼いたこと,それは法令を明確にするためだったことがわかる。
商鞅方升。上海博物館蔵。
実際に商鞅が度量衡を統一したときにつくらせた「ます」。左側面に商鞅が升の基準を定めたこと,右側面に始皇帝が天下統一したのち,度量衡を統一したことが刻まれている。つまり,商鞅の定めた升が始皇帝まで使われていたということ。感動。
商鞅は法の運用を徹底するために,相手が孝公の息子であっても容赦なく「鼻そぎの刑」にしました(法に例外があってはならない)。そのせいで公族から怨みを買い,孝公の死後,「車裂きの刑」にされてしまいます。しかし,彼の作った法律・制度は受け継がれ,天下統一の基礎となりました。
秦王政
名は「趙政(ちょうせい)」「嬴政(えいせい)」。前259年の正月に生まれたので,「政」と名づけられたとのこと。「高い鼻筋,細長い目,猛禽のような胸,山犬のような声で,恩情に乏しく,虎狼のような残忍な心の持ち主」だったそうです。
父は子楚(しそ)といい,このとき趙に人質として送り出されていた秦の王子でした。この不遇の王子に目をつけたのが大商人の呂不韋(りょふい)です。彼は「奇貨居くべし」〈=こんなに優れた商品は手元に置いておかねばなるまい〉として,子楚を秦王にすべく巨万の富をつぎ込みます。奇貨とは,やがて必ず値上がりする投資商品のことです。
子楚は趙の邯鄲(かんたん)に滞在している間,呂不韋の愛姫に惚れて彼女を所望します。呂不韋は「奇貨」を手放すわけにはいかないので,泣く泣く愛姫を子楚に献上しました。一年後,彼女は子どもを産みました。その子が政です。『史記』によれば,子楚が惚れる前に彼女はすでに呂不韋の子を妊娠しており,したがって政は呂不韋の子だと明言しています(ただし妊娠期間は「12か月」だったそうで,十月十日(とつきとおか)=約280日間をだいぶ超えています)。
その後,子楚は首尾よく即位して荘襄王となり,次いで前247年に政が即位します。もちろん呂不韋は荘襄王と秦王政の二代に宰相として仕え,栄華を極めます。投資がものの見事にうまくいったわけです。
始皇帝の研究者と言えば,この人,という感じの鶴間和幸先生の著書。始皇帝の生涯を丁寧にたどりながら,これまでの研究成果や新資料を踏まえて,従来のものとは違う始皇帝像を復元します。劇的に変わるわけではないのが,よい感じです。冒頭で始皇帝の名前が「政」から「正」に変わったのはびっくりしましたけど。
嫪毐の乱
前238年,嫪毐(ろうあい)の乱が起きます。「始皇帝の生涯で最大の内乱事件」(『人間・始皇帝』)です。
嫪毐は呂不韋が後宮に送り込んだ宦官です。宦官(かんがん)とは,君主のお側にいて雑役に従事する去勢された男(生殖器を失った男)のことですが,嫪毐はひげを抜いてそう装っていただけで,実は立派なモノを持っており,車輪をひっかけて回せるほどでした。
呂不韋が彼を後宮に送り込んだのは,自分の不倫に終止符を打つためでした。呂不韋の不倫相手は秦王政の母です。彼女はもと呂不韋の愛姫であり,二人の関係は政が王に即位したのちも続いていました。王の母〈=太后〉との不倫は,呂不韋にとって命取りになるスキャンダルです。そこで,嫪毐を送り込んで,彼女の気をそちらに移してしまおうと考えたわけです。ところが,嫪毐は太后との間に密かに二人の子をもうけたばかりか,政を排除して,その子を秦王にしてしまおうという陰謀を企てました。
前238年,嫪毐(ろうあい)の乱が起きます。「始皇帝の生涯で最大の内乱事件」(『人間・始皇帝』)です。
嫪毐は呂不韋が後宮に送り込んだ宦官です。宦官(かんがん)とは,君主のお側にいて雑役に従事する去勢された男(生殖器を失った男)のことですが,嫪毐はひげを抜いてそう装っていただけで,実は立派なモノを持っており,車輪をひっかけて回せるほどでした。
呂不韋が彼を後宮に送り込んだのは,自分の不倫に終止符を打つためでした。呂不韋の不倫相手は秦王政の母です。彼女はもと呂不韋の愛姫であり,二人の関係は政が王に即位したのちも続いていました。王の母〈=太后〉との不倫は,呂不韋にとって命取りになるスキャンダルです。そこで,嫪毐を送り込んで,彼女の気をそちらに移してしまおうと考えたわけです。ところが,嫪毐は太后との間に密かに二人の子をもうけたばかりか,政を排除して,その子を秦王にしてしまおうという陰謀を企てました。
前238年,嫪毐は政が成人の儀を行う隙を突いて挙兵しました。これが嫪毐の乱です。しかし,わずか十日ほどで戦いに敗れて,彼とその一党は全員処刑されてしまいました。このとき,嫪毐と太后の関係だけでなく,呂不韋と太后の関係も発覚し,呂不韋もその罪を問われて処罰されました。秦王政が成人して親政を開始すると同時に,その父・荘襄王から宰相として政治の実権を握ってきた男が退場することになったわけです。なお彼が服毒自殺をするのは二年後のことでした。
(つづく)
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