2016年6月14日火曜日

中国史/古代/秦

STEP3                 

 秦の法運用の実態 

 秦の法運用の実態は,1974年に発掘された睡虎地秦簡(すいこちしんかん)や1984年に発掘された張家山漢簡(ちょうかさんかんかん)のおかげでずいぶんと明らかになってきました。

「秦簡」とは,秦の時代の竹簡(ちくかん)という意味です。「漢簡」はもちろん漢の時代の竹簡です。当時はまだ「紙」がなかったので,細長い竹(割り箸みたいなやつ)に文字を書いて紙がわりにしていました。この竹の棒を「竹簡」と呼びます。あとは,文字が書かれた竹棒をひもで縛ってすだれみたいにし,クルクルと巻いて「巻物」にしました。今でも本を1巻・2巻と数えるのはこのときの名残です。いま文庫本1冊に収まっている『論語』も30巻あったそうなので,本というのはずいぶんとかさばるものでした。

 睡虎地秦簡も張家山漢簡もお墓に副葬されていたものです。こういうものを同時代史料と呼びます。
 張家山漢簡によると,死刑には,①腰斬(ようざん),②磔(たく),③梟首(きょうしゅ),④棄市(きし)の4種があり,腰斬は腰部切断(なかなか死ねないのですごく痛い刑),磔ははりつけ,梟首はさらし首,棄市は市場に死体を放置です。ところが,実際に腰部切断などを行っていたわけではなく,①腰斬では受刑者の父母・妻子・同母兄弟も連座して死刑,②磔では受刑者の妻子も連座して労役刑,③梟首は連座なしで「さらし首」あり,④棄市では連座も放置もなし,と決められていました。要するに,腰斬といってもただ名前だけで,実際は連座の範囲を表していたわけです。思ってたより秦の刑罰は残酷ではなかったよ,というのが研究者たちの結論です。僕たちから見れば,十分,残酷に見えますけど。
 そのほか多用したのが労役刑です。最も重い労役刑は「城旦(じょうたん)」といい,期限はなく,重い土木工事や危険な辺境の仕事に従事させられました。例えば,異民族の襲撃に怯えながら「万里の長城」を築くのは彼らの仕事です。また城旦を科せられた刑徒の妻子は奴隷身分に落とされましたし,罪に重さによって,①完城旦(肉刑なし),②黥城旦(+入れ墨),③黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ),④斬左趾黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ・左足切断),⑤斬右趾黥劓城旦(+入れ墨・鼻削ぎ・左足切断・右足切断)の等級がありました。女性刑徒の場合は黥まではありましたが,鼻削ぎや足の切断はなかったそうです。というわけで,思ってたより秦の刑罰は残酷ではなかったよ,というのが研究者たちの結論です。えっと,声を大にして言いたい。十分に残酷だと思う!
 秦は,阿房宮(あぼうきゅう)とか,馳道・直道とか,万里の長城とか,驪山陵(りざんりょう)とか,多くの大規模土木事業を進めたので,多くの刑徒が必要になりました。秦は法を厳格に適用し,全国から刑徒を集めて,宮殿を築いたりお墓を掘ったり長城を連ねたりしていたのです。

 旧六国の地域で反乱が相次ぐのも,当たり前のことでした。

参考資料:中国出土史料学会編『地下からの贈り物 新出土史料が語るいにしえの中国』東方書店

2016年6月13日月曜日

中国史/古代/秦

STEP 2            


 秦の滅亡 

 秦は15年で滅亡します。その原因は,①法家思想にもとづく厳格な政治,②民衆を苦しめた過酷な労役と対外戦争,にあったとされます。


 厳格な統治 

 法家思想は「信賞必罰」を旨とします。法律の運用を少しでも緩めると,「法律を破ってもかまわない」というムードが生まれてしまうからです。例えば,信号無視は立派な法律違反ですが,歩行者や自転車が信号無視を繰り返したところで警察は見逃してくれますから,みなさんもすっかり信号無視を犯罪とは思わなくなっていますよね。同じように,多少遅刻しても事情を説明すれば許してもらえるとか,大事な仕事でも体調が悪ければ休んでもOKとか,そういった甘いことをつづけていると,モラルハザードが起きて,だれも決まりごとを守ろうとはしなくなるわけです。
 秦は厳格な法運用を実施しました。統一後,旧六国(韓・魏・趙・斉・燕・楚)の民はあまりにも細かな法規定と厳しい罰則にうんざりします。


 過酷な労役と対外戦争 

 『史記』始皇本紀には「隠宮,徒刑七十余万人をして,乃ち分けて阿房宮を作らせ或いは驪山を作らしむ」とあります。「陰宮」は宮刑(性器切断刑)を受けた囚人,「徒刑」は労役刑を受けた囚人のことです。

●阿房宮
 秦の都は咸陽(かんよう)です。前350年に孝公が遷都して以来,ずっとここです。中心は渭水の北岸にあり,歴代秦王(始皇帝を含め8代144年)は,ここに宮殿を建設しつづけました。始皇帝も,六国を征服する過程で,国をひとつ征服するたび,その国の最も壮麗な宮殿を測量して,そのレプリカを咸陽につくらせました。そうした宮殿を「六国宮殿」と総称し,全部で145を数えました。1万を越える各国の美女がそこに集められていたそうです。
 阿房宮(あぼうきゅう)は,始皇帝が渭水の南岸に新たにつくらせた宮殿で,前212年に着工しました。『史記』によれば,「東西500歩(690m),南北50丈(115m),その上には1万人を座らせることができ,その下には5丈(11.5m)の旗を立てることができた」とのこと。渭水北岸の宮殿群と渡り廊下で結ばれていました。当時,民間では,「阿房,阿房,秦を滅ぼす」と盛んに歌われており(『述異記』),この阿房宮こそが民衆の反乱を招き,秦滅亡の原因になったとされています。

●驪山陵
 驪山陵(りざんりょう)は別名「始皇帝陵」。面積は56平方キロメートル。東京ディズニーランド約120個分です。約8000体の等身大陶製フィギュア=兵馬俑(へいばよう)で知られています。秦王に即位した翌年に造営を開始しました。
 兵馬俑は素焼きの人形です。約8000体もありながら,ひとりひとり異なる顔をしており,実際の兵士をモデルに作成されたと考えられています。顔にはエラの張り方や頬骨の高さなどに民族の特徴が出ており,秦軍が多種多様な出自の兵士によって編成されていたことがわかります。同時に,青銅製の武器も出土していますが,中にはクロムメッキ加工を施されたものもあり,埋められてから2000年以上経っているというのに,さびていなかったそうです(ちなみにクロムメッキ加工は耐摩耗性・耐食性に優れたメッキ加工で,1937年にドイツで発明されました。なぜ,この時代にあったのかはなぞ)。
 兵士をかたどった兵馬俑ばかりが有名ですが,文官をかたどった文官俑(ぶんかんよう)や芸人をかたどった百戯俑(ひゃくぎよう)なども発掘されています。そもそも,こうした俑(素焼きの人形)や青銅製の鶴や楽器などを埋めた穴を陪葬坑(ばいそうこう)と呼びます。全部で約200もあり,兵馬俑坑はそのうちの1つに過ぎません。そのほか,銅車馬坑,珍獣異獣坑,馬厩坑,動物坑,石鎧坑,百戯俑坑,文官俑坑,水禽坑(水禽は水鳥という意味)などがあります。いずれも始皇帝が死後の世界で必要とするものを俑や青銅でつくって埋めたと考えられています。動物率が妙に高いあたり,始皇帝は動物好きだったのかもと思わせます。
 肝心の始皇帝の墓は,場所はわかっていますが,まだ発掘されていません。始皇帝の遺体が眠る墳丘(日本の古墳と同じように中国の墓も土を盛って丘状にします)は,二重の城壁に囲まれていて,墳丘の地下30メートルの部分には巨大な地下宮殿が横たわっています。『史記』によれば,水銀で天下の河川(黄河や長江など),海を再現し,墓室の天井には天文を,床には地理を描いたそうです。中華世界を地下に再現したわけです。実際,最新技術で調査した結果,地下に広大な空間があることもわかっていますし,地表面の水銀量を測ったところ高い数値が出ているので,ある程度『史記』の記述どおりの墓室が発掘されるのではないかと期待されています。

●万里の長城
 万里の長城(ばんりのちょうじょう)は東西約5000キロ。モンゴル高原の遊牧民族「匈奴(きょうど)」などが,秦に侵入して来ないように建設したもの。そのころ,匈奴は頭曼単于(とうまんぜんう)という英主を得て,強大な勢力に成長していました。
 前215年,燕人盧生(ろせい)という人物が「秦を滅ぼすものは胡なり」という預言書を始皇帝に献上します。胡とは,北方の異民族を意味し,ここでは匈奴を指します。そこで,始皇帝はさっそく将軍の蒙恬(もうてん)に命じ,30万の軍を与えて匈奴を討たせ,オルドス地方から彼らを追放しました。その後,前213年までに東の端から西の端まで万里の長城を建設し,匈奴が南下できないようにしました。黄土が豊富な地域では版築で,そうではない地域では平石を積み重ねて高さ4m,幅4mの長城を築きました。なお,万里の長城は秦が単独で建設したわけではなく,もともと北方にあった旧六国の趙や燕が築いていたものを修築してつなげたものです。

●対外戦争
 前215年,蒙恬が30万の兵を率いて匈奴を討伐し,その翌年,屠睢(とすい)が50万の兵を率いて華南の百越(ひゃくえつ)を討伐しに向かいました。百越は浙江省・福建省など東シナ海沿いに暮らす海洋民族で,春秋時代に「越」を建国したことでも知られています。始皇帝は百越を討伐するために全長30kmの運河霊渠(れいきょ)を掘削して,湘水と離水という川をつなぎ,咸陽から水路で百越のいる華南まで行けるようにしました。屠睢は船に50万の兵士を乗せて,川伝いに華南に到達しましたが,そこで大敗。その後,趙侘(ちょうた)が指揮をとり,百越を征服して,南海(なんかい),象(しょう),桂林(けいりん)の3郡を設置しました。こうして秦の領域はベトナムのハノイにまで及ぶことになりました。


 厳格な法治,重い労役,度重なる外征に民衆の不満は蓄積し,始皇帝の死後,ただちに陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)と呼ばれる農民反乱が起きます。これが秦滅亡の第一歩となりました。


2016年6月12日日曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 封建制とは 



〈封建制度は双務的契約関係〉
それでは,封建制の続きです
「せんせー,ヨーロッパの封建制度と中国の封建制はどこが違うんですか?」
簡単に言えば,君主と臣下の関係が契約関係か血縁関係かです。ヨーロッパの封建制度の場合は『双務的契約関係』と説明されたりします。『契約』の意味はわかりますか?
「けいやく?」
「約束みたいなもの?」
うんうん,素直でいいですね
「2人以上の当事者が合意することによって成立する法律行為のことですよね」
……う,かわいくない。でも,まあ,そのとおりです。例えば,君主(雇う側,封建領主とか)が年収1000ポンドで雇いたいと提案し,臣下(雇われる側,騎士とか)がそれでよいと合意したら契約成立です。君主には約束どおり年収1000ポンド相当の封土を与える義務がありますし,騎士にはそれに見合った働きをする義務があります。戦争が起きたら,その君主側に立って参加しなければならないわけです
「せんせー,その騎士がチキン野郎で,いざ戦争になったらビビって逃げ出した場合はどうなるんですか?」
「そんなチキン野郎,戦場に来たって役に立たねーから,来なくてもよくね?」
「揚げて食べちゃえばいいよね」
「ミンチにして,つくねにした方がいいよ」
「ぶつ切りにして,カレーの具にすれ……」
はい,ストップ! 豚バラ肉以外のカレーなんて考えられません。冒瀆です。ビビって逃げ出したら,その騎士は契約で定められた義務を放棄したわけですから,契約は無効です。封土を取り上げられることになります。ミンチにしたりぶつ切りにしたりする必要はありません。逆に,君主が約束の封土を与えなかったら,今度は君主側が契約を破ったことになるので,騎士に従軍義務はありませんし,その君主のもとを去って別のもっとちゃんとした君主に仕えでもいいです
「敵の君主とかでもいいんですか? 昇給に納得できないから,あえてライバル社に移籍するような」
いいこと,言いますね。もちろんいいですよ


〈封建制は要するに分家〉
一方,中国の封建制では,王はそもそも自分と同じ宗族の一員を封建します。息子とか叔父とか従兄弟とかです
「『一族・功臣を諸侯にした』んじゃないんですか?」
教科書にはそう書いてありますね。確かに功臣も封建してるんです。例えば,周の文王・武王に仕えて殷周革命を成功させたのが,弁当売りの太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)です。釣りをしているところを文王にスカウトされました
「なんかすごく役に立たなさそう……」
何を言ってるんです。大活躍しましたよ。革命後,この太公望を山東半島の営丘の地に封建しました。それが戦国の七雄にも名前を連ねる『斉』です。でも,『一族・功臣を諸侯にした』と理解すると,血縁関係=宗族関係を基盤としたという西周封建制の特長があいまいになってしまうんです
「せんせー,そもそもどうして諸侯を置いたんですか? はじめから官僚を派遣して,中央集権体制で統治すればよかったのに」
いい質問しますね。でも,それは後知恵の意見です。彼らは初めて『広大な領域を支配する』という難事業に挑んだわけです。今なら国家統治のノウハウが蓄積されていますから,彼らよりも優れたアイデアを出せますけど,当時は,まあ,難しいですよね。彼らも,どうしたら広大な地域を治められるのか,探り探り進めていたはずです。ちなみに,西周が諸侯を置いたのは,鎮圧に3年かかった大規模な反乱がきっかけです。ところで,殷を滅ぼしたのはだれか覚えていますか?
「はい!」
じゃあ,そこの坊主
「せんせー,これ,クルーカットです。モデルはアメリカの海兵隊です」
じゃあ,そこの海兵(マリーン),答えは? センパーファイ!(常に忠誠を)
「周の文王(ぶんおう)です,軍曹。センパーファイ!」
惜しい。実際に殷を滅ぼしたのはその子の武王(ぶおう)の方です。お父さんの文王はその仁徳で周の声望を高めて,殷周革命の下地をつくった人ですね。あと,易(えき)の六十四卦をつくったりしています。
「易? 易とはなんですか,軍曹」
まだつづけるんですね……。占いの一種です。『当たるも当たらぬも八卦』のやつ。八卦に八卦をかけて六十四卦です。さて,武王は殷の紂王を牧野で破ったあと,早々に亡くなります。あとを継いだのが幼い成王と周公旦(しゅうこうたん)です。周公旦は,周の基礎を築いた人で,のちに孔子のアイドルになります。孔子は夢に周公旦が出て来なくなっただけで,ずいぶんと落ち込んでいます

「で,その人が封建制をはじめたんですか?」
そのとおりです! 素晴らしい。武王の死後,周公旦が幼い成王に代わって実権を握ると,武王を中心にまとまっていた周の陣営に亀裂が入り,その隙を突いて殷の残存勢力が大規模な反乱を起こしました。周公旦はこれを何とか鎮圧したのち,
  1. 紂王の庶子の微子(びし)を『宋』の地に封建して殷の祭祀を引き継がせ,
  2. 武王の末弟の康叔(こうしゅく)を殷の中心地だった『衛』の地に封建して殷の民を統治させ,
  3. 殷の民のうち最も反抗的なものを現在の洛陽の地に強制移住させて洛邑(らくゆう)を建設しました。
これが封建の初例です。もと殷の民を監視して,反乱を起こさせないという意図で始まったわけです。なお洛邑は西周第二の都となります。第一の都が現在の西安の地にほど近い鎬京(こうけい)で,第二の都が洛邑(らくゆう)です

「せんせー,『封建する』って,具体的にどうするんですか?」
いい質問しますね。周王は宗族の1人,自分の弟や叔父や従兄弟を選んで諸侯とし,封土として与えた土地に送り出します。このとき,その土地にはまだ邑=都市はできていません。送り出された諸侯が開墾して,そこに邑を建設します。もちろん1人では何もできないので,周王は支配下の民を一族単位でいくつか一緒に送り出します。例えば,康叔を封建するときにはもと殷民の7つの氏族(陶氏・施氏・繁氏・錡氏・樊氏・饑氏・終葵氏)を分け与えています。封建とは,移民でもあったわけです。封土に到着した諸侯は,率いていてきた民とともに,祖先を祭る宗廟(そうびょう)と,土地神と穀物の神を祭る社稷(しゃしょく)を建て,邑の建設予定地の四方に版築の技法で,つまり土を盛って,境界線を引きます。この“土を盛って邑の境界を定める”ことを『封(つちもり)す』と呼びます。このあと,諸侯は邑を建設して,自分の国とするわけです。というわけで,『封建する』とは,(つちもり)させて,諸侯国をてさせることです
「一族を送り出して,新しい国をつくらせたわけですね」
そのとおりです。要するに,分家ですね。周王にとって信頼できるのは血のつながった一族ですから,次々と分家して一族の国を隅々にまで作ることで,天下を統治しようと考えたわけです。諸侯国を『藩』と呼びますが,これは周王室を守る垣根=藩屏(はんぺい)という意味です


〈分家の分家,分家の分家の分家が身分秩序をつくる〉
 周王室は『姫(き)』を姓とします。周王の跡継ぎは長男であり,長男と次男や三男との間には優劣がつけられました。これを『長幼の序』と呼びます。もちろん正室の産んだ嫡子(ちゃくし)と側室の産んだ庶子(しょし)との間にも厳密な差が設けられました。こうした細かな決まりを宗法(そうほう)と呼びます。僕らにとってはなんとなく常識に感じますけど,封建制を維持するためにつくられた道徳だったわけです。

  1. 周王の地位は嫡子かつ長男(長嫡子)が継承し,宗廟と社稷を引き継いで祭祀を続けます。
  2. 周王の実弟(次男以降の嫡子)と異母兄弟(庶子)は封土(公邑)を与えられて諸侯となります。要するに,分家です。このとき,周王室=本家を『大宗』,諸侯=分家を『小宗』と呼びます。
  3. 諸侯の地位はその長嫡子が継承し,宗廟と社稷を引き継いで祭祀を続けます。また封邑の名前を氏としました。例えば,衛に封建された康叔の子孫は『衛』を氏とし,魯に封建された伯禽(はっきん)の子孫は『魯』を氏としました。諸侯には『姫』姓のほか,『衛』氏や『魯』氏といったもう1つのファミリーネームがあったわけです。
  4. 諸侯の実弟と異母兄弟は封土(采邑)を与えられて卿・大夫になりました。これも分家です。このときは諸侯=本家で大宗,卿・大夫=分家で小宗です。この卿・大夫も,はじめは『公子』(諸侯の子),『公孫』(諸侯の孫)と名乗りますが,その後は邑の名前を氏としました。
  5. 卿・大夫の地位は嫡子の長男が継承し,その実弟と異母兄弟は士になります。
  6. 士の地位は嫡子の長男が継承しますが,残りはすべて庶人=一般人になります。なお士までが貴族階級です。上級貴族が卿・大夫,下級貴族が士です。
 このように,分家を繰り返して,周王→諸侯→卿・大夫→士という階層型の社会構造をつくりました。宗法では,大宗(=本家)は小宗(=分家)の上に位置づけられていたので,周王→諸侯→卿・大夫→士はそのままピラミッド型の身分秩序になりました。周王の方が諸侯よりも地位が上であり,諸侯の方が卿・大夫よりも地位が上……というように。
 中国の封建制が血縁関係=宗族関係を基礎にする,と説明されるのはそのためです。西洋の封建制度とはずいぶんと違いますよね。


〈異姓諸侯をどうするか〉
 さて,同姓諸侯ばかりで,すべて『姫』姓一族なら問題ないわけですが,実際は功臣も諸侯にしましたから,この本家・分家関係=宗法が通用しない異姓諸侯もいるわけです。それでは,彼らをどうすればよいのか。
 周王は彼らと姻戚関係を結ぶことで,この問題をクリアしようとしました。娘と異姓諸侯を結婚させることで,彼らを『娘婿』にして,『義理の父』としてその上に立ったわけです。ちなみに,王室から『姫』姓の女性が続々と異姓諸侯のもとに送り込まれたので,いつしか王女のことを『姫(ひめ)』と呼ぶようになりました。