2016年5月28日土曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 封建制とは 




〈封建制と封建制度〉
今日は中国史の重大テーマ,封建制(ほうけんせい)についてお話ししましょう。ところで,みなさん,『封建制』って聞いたことがありますか?
「御恩と奉公!」
「土地!」
「いざ,鎌倉!」
「武士!」
「せんせー,西洋の騎士は?」
「封建制度って,ゲルマンの従士制とローマの恩貸地制が融合して生まれたものですよね?」
「それはフューダリズムのことだろ」
「違うよ,レーン制のことだって。一緒にしちゃダメだよ」
「どっちも同じ封建制度を指す言葉だけど,レーン制は“土地を媒介とした主君と臣下の関係”を説明しているものの,領主対農民の支配隷属関係を含んでいないのが問題だ。これまでの歴史は階級闘争の歴史だった。特権階級の領主と,彼らから搾取され虐げられた農民との対立関係を抜きの概念なんてまったく意味が……」
はい! ストップ! そこまで。えーと,……あなたがた,自分たちの設定が小学生ってこと,覚えてますか? しかも,ひとりマルクス主義者が混じっていましたね。設定を忘れないように
「はーい」
「せんせー,『封建制』って,西洋史でも日本史でも出てきますけど,同じ感じですか?」
いい質問ですね。西洋史の封建制度と日本史の封建制度は似ていますけど,それと中国史の封建制はまったく別物です。名前も,西洋史と日本史の方は『封建制度(ほうけんせいど)』,中国史の方は『封建制(ほうけんせい)』で,実は使い分けています
「せんせー,違いが微妙です!」
そうですね。西洋史の方をあえて『フューダリズム』とか『レーン制』と呼んで区別することもありますよ


〈封建制と封建制度の共通点〉
さて,まずは両者の共通点から見ていきましょう。封建制と言えば,何を思い出しますか?
「御恩と奉公!」
「土地!」
「いざ,鎌倉!」
はい。ありがとう。さっきと見事に同じですね。その通りですよ。まず武士あるいは騎士が君主から土地を与えられます。この土地を封土(ほうど)と呼びます。この封土から得る地代や租税が彼らの収入になります。封土を与えられた武士・騎士はこの主君から受けた御恩に対して,軍事的な貢献でお返しをします。これが奉公です
「ギブ&テイクですね」
そうなんです。主君に対する忠誠心なんて,サラリーを払っている間しか持ちません。金の切れ目が縁の切れ目。サラリーを払ってくれない君主なんて,バイバイです
「騎士なんて性悪女と同じですね。金の切れ目が縁の切れ目。貢いでくれない男なんて,バイバイ……」
その通りです! もう最悪です。これまで費やしてきたものを返せって話ですよね。記念日のたびにこっちがどれだけ努力して……
「返せって……。せんせー,割と引くー」
「ボクもー」
「こっぴどいフラれ方をしても,『素晴らしい思い出をありがとう』って言える器が欲しいよね」
「せんせー,大丈夫! きっと,もっといい人が現れるよ!」
そうですね。ありがとう。でも,先生にとって彼女は国士無双。忠誠心は揺らぎもしてないです
「……」
さて,さて,封建制度では,サラリーではなく土地なので,土地の切れ目が縁の切れ目になります。例えば,軍事的功績を立てながら,土地の加増がないと,武士・騎士たちはものすごく不満を貯めます。がんばったのに! と怒るわけです。場合によっては,もっといい人のところに行ってしまいます
「なんか,主君の立場って弱いんですね」
そうですね。臣下たちをつなぎとめるには,たえまなく加増しつづけるしかないわけですから。あるいは,50年も100年も前に土地を与えたことを,いつまでも思い出させて恩に着せつづけたりします
「うわぁ」
ね,引きますよね。西周の青銅器の多くは,実は恩を着せる目的で造られています。殷の青銅器よりも西周の青銅器の方が,鋳込まれている文字の数がどんどんと多くなっていって,中には毛公鼎のように500字近く鋳込まれたものも現れます。その内容は,簡単に言うと,かつて周王があなたの祖先に土地を与えたことを忘れるな,です
「一度,贈ったブランドもののバッグのことをいつまでも持ち出しては,『ね,あれ,使ってる?』とか聞いてくるケチな男と一緒ですね。もうとっくにヤフオクに出したっていうのに……」
それはそれで問題ですね。あと,明らかに設定忘れてますよね
「……」
さて,中国の封建制でも,周王が諸侯に封邑を与えて,諸侯はその御恩に対して軍事的貢献をしたり貢納したりして応えるわけですから,この点では西洋史と日本史の封建制度と変わりません
「じゃあ,どこが違うんですか?」


それはね……次の授業で


(つづく)

2016年5月25日水曜日

中国史/古代/秦

STEP 2            


 始皇帝 

 前221年,秦王政は最後の七雄「」を滅ぼして,天下統一を成し遂げます。七雄最初の亡国となった「韓」を滅ぼしてから,たった9年後のことでした。

 西周時代の初め,諸侯は800も割拠していました。その後,春秋時代に入るころには200まで数を減らし,戦国時代には7に絞られていました。いわゆる「戦国の七雄」です。その七雄の中で最後まで生き残ったのが秦でした。800チームも参加した長い予選を経て,戦国時代にビッグ・セブンによる決勝リーグが行われ,最後に秦が優勝して,800年も続いた大会が終わった感じです。

 彼は「王」を越える称号として「皇帝」を採用します。「三皇」の「皇」と「五帝」の「帝」を合わせたものです。彼は「○王」や「○帝」のような諡(おくりな)を嫌い,死後は単に「始皇帝」〈=最初の皇帝〉と称することにしました。諡とは,死後その生前の功業を讃えて贈る尊号であり,場合によっては「バカ王」とか「親殺し帝」と名づけられかねないので,それを拒否したわけです。勝手にあだなをつけられてたまるか,といったところ。彼は「後世は二世三世と数えて万世に至り、無窮に伝えることとす」としました。次の皇帝は自動的に「二世皇帝」,その次は「三世皇帝」です。なお「万世」まで伝えたいという彼の願いも虚しく、秦は3代15年で滅びました

始皇帝


 李斯  

 呂不韋失脚後,宰相となって始皇帝を支えたのが李斯(りし)です。商鞅と同じく法家の1人に数えられます。彼は,法家思想を集大成した韓非(かんぴ)とともに,儒家の荀子(じゅんし)に師事したこともあるという異色の経歴の持ち主です(儒家と法家なんて,水と油なのに)。

 この李斯を中心に,秦は中国全土を中央集権体制で統治する難事業に挑みました。

  1. 丞相(行政),大尉(軍事),御史大夫(監察)の設置。
  2. 郡県制:中国全土に拡大。全36郡(のち48郡まで拡大)。
  3. 馳道(ちどう)・直道(ちょくどう):道路網の整備および車軌の統一。
  4. 度量衡の統一
  5. 半両銭:貨幣の統一。方孔円銭。「半両」は重さで,約8g。
  6. 篆書(てんしょ):文字の統一。青銅器や石碑の銘文に使うような装飾的で非実用的な字体「大篆」を簡素化したもの。いわゆる「小篆」。
  7. 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ):思想統制。秦以外の歴史書,および,医薬・占い・農業技術などの実用書以外の書物を焼き払い,儒家を含む460名の学者を穴埋めに。
●丞相
 丞相・大尉・御史大夫の設置は中国版の三権分立です。宰相に権力が集中していた状況を改め,行政を丞相に,軍事を大尉に担当させて権力を分散し,そのうえ御史大夫にそれぞれをチェックさせました。皇帝を脅かす存在をなくすためです。

●郡県制
 郡県制は,商鞅の県制を全国に拡大したもので,行政単位として「郡」「県」を設置し,そこに「郡守」「県令」と呼ばれる官僚を派遣して,皇帝に代わって統治させました。日本だと,宮城登米といった形で,県の下に郡がありますが,中国の場合は南陽新野といった具合で,郡の下に県があります。「郡(ぐん)」は「群(ぐん)」と同じで,「県を集めたもの」=「県の群れ」という意味だそうです(あるいは,「県」は「懸」と同じで,「郡に懸けるもの」を意味するという説もあります。ちなみに「県」の旧字体「縣」は「斬りおとした首を木にかけたところ」の象形文字とのこと)。
封建制では,諸侯や卿・大夫に邑を与えてしまうので,統治も任せっきりです(当たり前ですね。封邑は王が諸侯にあげたものなので。王はもはや手出しできないわけです)。郡県制では,郡・県を官僚に与えるわけではありません。あくまで皇帝のものです。官僚は皇帝の手足となり,皇帝の指示通りに,その郡・県を治めます。問題はどのように指示を与えるかです。いまと違って電話もネットもありませんから,指示するにも早馬で2週間かかったりしました。というわけで,秦は膨大な量のマニュアルを作成して,そのマニュアル通りに統治させることにしました。このマニュアルを「」と呼んでいます。

●馳道・直道
 馳道は,まさに「馳せる道」で,秦の都咸陽(かんよう)と旧六国(斉・楚・燕・韓・魏・趙)を結ぶ幹線道路です。幅は「50歩」=約67.5m。三車線に分かれており,路面は地面よりも高く,版築の技法で突き固められていました。皇帝専用道路であり,横断することも禁じられていたとのこと。
 車軌は「車のわだち」で,戦国時代には各国はあえて車輪と車輪の幅を変えることで他国の馬車が自国内をスムーズに通行できないようにしていました。始皇帝はこのわだち〈=車軌〉の幅を統一することで,各国の道路を連結して道路網を整備しました。馳道を含め,道路網の総延長は12000kmに及んだそうです。
 また全国を網羅する道路網に加えて,直道も建設しました。首都咸陽(かんよう)から内モンゴルの太原郡(現在の包頭)まで,全長750km。幅30~50mで,側溝も路肩も備え,馳道と同じく版築の技法で突き固められていました(今でも直道は草木も生えていない状態で,その跡を容易に確認できます)。秦と敵対する遊牧民族匈奴(きょうど)の対策として,始皇帝が将軍蒙恬(もうてん)に命じ,10万人を動員して建設させました。これで,匈奴のいるところまで,スムーズに軍隊を送り込むことができます。建設に当たって「山を削り谷を埋めた」と『史記』にはありますが,これは誇張ではなく,勾配を最小限に抑え,可能な限り直線にするために,山を削り谷を埋めた跡が考古学的な調査でも確認できたそうです(『幻の道 直道』より)。

●度量衡の統一
 度量衡の統一は,商鞅がすでに行っていたものです。始皇帝は,この秦の度量衡を中国全土に拡大しました。確認しておくと,度量衡とは,「度」=長さ,「量」=体積(多さ),「衡」=質量(重さ)を指します。度量衡の統一とは,長さを測る「ものさし」,体積(多さ)を量る「ます」,重さを量る「はかり」の規格を統一することです。同じ「1升」でありながら,地域によって1.8リットルだったり2.0リットルだったりすれば,徴税にせよ何にせよ,混乱が起きます。そこで,始皇帝は標準器を作り,全国どこでも同じ長さの「ものさし」,同じ大きさの「ます」,同じ重さの分銅(はかりにのせるやつ)で計量できるようにしました。

●半両銭
 戦国時代には,刀銭,布銭,蟻鼻銭など,さまざまな青銅貨幣が流通しており,しかも国家が独占して鋳造しているわけでもなく,さまざまな民間業者が勝手に鋳造したりしていました。始皇帝はそこで貨幣鋳造権を国家で独占し,重さ半両(約8g),方孔円銭(円形で真ん中に四角い穴)の半両銭に貨幣を統一しました。戦国時代には,円孔円銭(円形で丸い穴)も発行したのに,方孔円銭に統一したのは,「天円地方」(天は丸く,地は方形)という中国の世界観にもとづいたからで,天下を治めているというメッセージがそこには込められているそうです。ちなみに,のち貨幣に鋳込まれる文字と言えば,元号になるのですが,半両銭には重さを表わす「半両」の文字が鋳込まれていました(そもそも元号自体がこのときにはありません)。

●篆書
 文字は,殷代の「甲骨文字」に始まり,西周の「金文」(青銅器に鋳込んだ文字),戦国時代の「大篆」を経て,より簡素化した「小篆」に統一されました。これを「篆書」と呼んでいます。でも,まだまだ装飾性が高く,煩雑で,非実用的でした。このころから「隷書(れいしょ)」が姿を現します。簡素で,実用的な文字です。やがて,この「隷書」から,僕たちにもおなじみの「楷書(かいしょ)」が生まれますが,それは後漢の話です。

甲骨文字(殷)→金文(周)→大篆(戦国)→小篆(秦)→隷書(秦から漢)→楷書(後漢)


●焚書坑儒
 始皇帝は,秦の記録以外の史書および医薬・占卜・農業技術書以外の書物を焼却し(焚書)、460名の学者を穴埋めにしました(坑儒)。
 前213年,儒家の淳于越(じゅんうえつ)という人物が,始皇帝に対して,今の郡県制を改め,昔の封建制に学び,始皇帝を支えるための諸侯王を置くべきだと主張しました。丞相の李斯は,これに反論します。戦乱の世をもたらした元凶は封建制だと。周の封建制には致命的な欠点があります。例えば,周王が自分の子を封じて諸侯にしたとします。当初は父である周王に感謝し,その恩に報いるために軍事や貢納の義務を喜んで果たします。しかし,周王と諸侯が死に,その子どもたちが封地を世襲すると,周王と諸侯の関係は「父と子」ではなく「伯父と甥」となります。両者の結びつきは弱くなり,御恩も遠い昔のこととなって感謝の気持ちも忘れがちになります。こうして,代替わりのたびに王と諸侯の関係は疎遠になり,御恩をますます忘れます。諸侯はもはや信頼できる臣下ではなく,単なる脅威になります。そんな脅威が800もあったので,結局,長い長いバトルロワイヤルが始まったわけです。李斯は淳于越に対して,「また戦乱をもたらす気か!」と反論しました。
 儒家の経典(詩経や書経)や諸子百家の書(墨子や老子)が民間にあれば,それらを持ち出して現体制を批判する連中(淳于越みたいな)がまた現れるかもしれない……そこで,李斯は焚書に踏み切り,「古を以て今を非(そし)る〈=昔のことを持ち出して現体制を非難する〉者は一族皆殺し」という厳しい法令を出しました。
 翌年,坑儒が行われます。坑儒とは,「儒家を穴埋めにする」という意味ですが,実際は妖言で人民を惑わした学者460人を穴埋めにしたのであって,儒家だけを弾圧したわけではありません。きっかけは詐欺事件でした。不老不死を心から求める始皇帝は,巨額の資金を費やして方士(神仙術の使い手)に不老不死の霊薬を探し求めさせていましたが,実は騙されていただけでした。これを知ってキレた始皇帝が,方士だけでなく学者も同類と見なして取り調べてみたところ,どいつもこいつもグダグダとわけのわからないのことを言って責任のなすりつけ合いをしているので,まとめて穴埋めにしたのです(十分にヒドい)。これを「坑儒」と呼び,あたかも始皇帝が儒家を目の敵にしたかのように事実を捻じ曲げたのは,後漢の儒家だそうです。

(つづく)

2016年5月20日金曜日

中国史/古代/秦

STEP 1            
  1. 戦国時代に終止符を打ったのは秦王政。  
  2. 秦は郡県制と呼ばれる中央集権体制で,中国全土を支配した。  
  3. 短命に終わった。  

STEP 2            

戦国の七雄」()のうち,他の六国を滅ぼして中国を統一したのは秦(しん)です。


 商鞅変法 

 秦が強くなったきっかけは商鞅変法(しょうおうへんぽう)です。「変法」とは政治改革のことで,戦国時代前期には魏の李悝(りかい)や楚の呉起(ごき),韓の申不害(しんふがい)など,多くの変法家〈=改革者〉が生まれ,おおむね封建制の弊害を排除し,法制度を整えて,君主を頂点に置く中央集権体制の構築を目指しました商鞅(しょうおう)はそうした変法家のひとりです。

 彼は秦の孝公(こうこう)に仕え,前356年と前350年の2度にわたって政治改革を断行し,法制度を整備して,中央集権体制を築きました。始皇帝よりも130年ほど前の人物ですが,その政策は,県制の施行,度量衡の統一焚書など,統一秦のものを先取りするような内容でした。

  • 県制小さな邑をまとめて「県」とし,令(長官),丞(補佐)を置く。封建制では,封建君主が封邑を自分のものとし,息子に相続させていた。県制では,「県」はあくまで中央のものであり,中央から派遣された県令が中央の指示通りに統治を行った。ちなみに,複数の「県」をまとめて「郡」を設置すると,「郡県制」になる。
  • 度量衡の統一:「度」は長さ,「量」は体積(多さ),「衡」は質量(重さ)を指す。「度」を測る「ものさし」,「量」を量る「ます」,「衡」を量る「はかり」を統一することを「度量衡の統一」と呼ぶ。今でも,重さの単位が「ポンド」だったり「キログラム」だったりすると,とても混乱するけど,当時も同じ。商鞅はそれを統一した。
  • 焚書:『韓非子』和氏篇に「詩書を燔(や)きて法令を明らかにす」とあって,商鞅が詩書を焼いたこと,それは法令を明確にするためだったことがわかる。

商鞅方升。上海博物館蔵。
実際に商鞅が度量衡を統一したときにつくらせた「ます」。左側面に商鞅が升の基準を定めたこと,右側面に始皇帝が天下統一したのち,度量衡を統一したことが刻まれている。つまり,商鞅の定めた升が始皇帝まで使われていたということ。感動。


 商鞅は法の運用を徹底するために,相手が孝公の息子であっても容赦なく「鼻そぎの刑」にしました(法に例外があってはならない)。そのせいで公族から怨みを買い,孝公の死後,「車裂きの刑」にされてしまいます。しかし,彼の作った法律・制度は受け継がれ,天下統一の基礎となりました。


 秦王政 

 名は「趙政(ちょうせい)」「嬴政(えいせい)」。前259年の月に生まれたので,「」と名づけられたとのこと。「高い鼻筋,細長い目,猛禽のような胸,山犬のような声で,恩情に乏しく,虎狼のような残忍な心の持ち主」だったそうです。

 父は子楚(しそ)といい,このとき趙に人質として送り出されていた秦の王子でした。この不遇の王子に目をつけたのが大商人の呂不韋(りょふい)です。彼は「奇貨居くべし」〈=こんなに優れた商品は手元に置いておかねばなるまい〉として,子楚を秦王にすべく巨万の富をつぎ込みます。奇貨とは,やがて必ず値上がりする投資商品のことです。
 子楚は趙の邯鄲(かんたん)に滞在している間,呂不韋の愛姫に惚れて彼女を所望します。呂不韋は「奇貨」を手放すわけにはいかないので,泣く泣く愛姫を子楚に献上しました。一年後,彼女は子どもを産みました。その子が政です。『史記』によれば,子楚が惚れる前に彼女はすでに呂不韋の子を妊娠しており,したがって政は呂不韋の子だと明言しています(ただし妊娠期間は「12か月」だったそうで,十月十日(とつきとおか)=約280日間をだいぶ超えています)。

 その後,子楚は首尾よく即位して荘襄王となり,次いで前247年に政が即位します。もちろん呂不韋は荘襄王と秦王政の二代に宰相として仕え,栄華を極めます。投資がものの見事にうまくいったわけです。




始皇帝の研究者と言えば,この人,という感じの鶴間和幸先生の著書。始皇帝の生涯を丁寧にたどりながら,これまでの研究成果や新資料を踏まえて,従来のものとは違う始皇帝像を復元します。劇的に変わるわけではないのが,よい感じです。冒頭で始皇帝の名前が「政」から「正」に変わったのはびっくりしましたけど。



 嫪毐の乱 

 前238年,嫪毐(ろうあい)の乱が起きます。「始皇帝の生涯で最大の内乱事件」(『人間・始皇帝』)です。

 嫪毐は呂不韋が後宮に送り込んだ宦官です。宦官(かんがん)とは,君主のお側にいて雑役に従事する去勢された男(生殖器を失った男)のことですが,嫪毐はひげを抜いてそう装っていただけで,実は立派なモノを持っており,車輪をひっかけて回せるほどでした。
 呂不韋が彼を後宮に送り込んだのは,自分の不倫に終止符を打つためでした。呂不韋の不倫相手は秦王政の母です。彼女はもと呂不韋の愛姫であり,二人の関係は政が王に即位したのちも続いていました。王の母〈=太后〉との不倫は,呂不韋にとって命取りになるスキャンダルです。そこで,嫪毐を送り込んで,彼女の気をそちらに移してしまおうと考えたわけです。ところが,嫪毐は太后との間に密かに二人の子をもうけたばかりか,政を排除して,その子を秦王にしてしまおうという陰謀を企てました。

 前238年,嫪毐は政が成人の儀を行う隙を突いて挙兵しました。これが嫪毐の乱です。しかし,わずか十日ほどで戦いに敗れて,彼とその一党は全員処刑されてしまいました。このとき,嫪毐と太后の関係だけでなく,呂不韋と太后の関係も発覚し,呂不韋もその罪を問われて処罰されました。秦王政が成人して親政を開始すると同時に,その父・荘襄王から宰相として政治の実権を握ってきた男が退場することになったわけです。なお彼が服毒自殺をするのは二年後のことでした。


(つづく)


2016年5月8日日曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 饕餮文 

「せんぱい,殷の青銅器ってかっこいいですよね」
「饕餮文(とうてつもん)とか?」

饕餮文。実は何の模様かわかっていない


「それもかっこいいですよね。饕餮(とうてつ)って,体は牛,顔は人,目はわきの下にあって,人を食らうそうです。まさかの逆ミノタウロスです。なんか,上半身の方が魚の『人魚』みたいですよね」
……前,見えるのかな
「たぶん,常に両腕を挙げて歩いてるんだと思います」
二足歩行なの?
「下半身だけ牛ってどうですか? ケンタウロスみたいに」
で,両わきを全開にするんだ
「近づいてくるとき,ちょっとリゾット・ネエロっぽくなりますよね」


俺はおまえに……近づかない


リゾットは近づかないけどな




ネタの宝庫。でも講義には役立たない。禹が人面魚身(足なし)の姿をした神だったとか。まさかの逆人魚。治水のときだけ「黄熊」に変身するって,もう「プーさん」としか思えない。ふだんは人面魚で,作業のときはプーさん……。


 殷の青銅器 

「殷の青銅器は祭器や酒器が主です。祭祀のときには酒が必須なので,酒器も祭器みたいなものですけど。祭祀用のせいか,装飾が妙に凝っていて,実用性をガン無視してる感じがいいですよね」
確かにゴテゴテしてるね
「あれ,鋳造で作ってるんです」
鋳造って,溶けた金属を型に流し込んで作るやつ?
「そうです」
高さが1mあったり重さが875kgあったりするのに,鋳型で作ってるんだ
「そうなんです。せんぱいが言っているのは,たぶん『后母戊鼎(こうぼぼてい)』のことですよね。中国で発掘された青銅器の中で最大のものです。殷墟で発掘されました。かつて『司母戊鼎(しぼぼてい)』と呼ばれていたものです」
なんで名前が変わったの?
「銘文に『司母戊』とあったので,『司母戊鼎』と名づけたんですが,『司』だと思っていた字が,よく見ると『后』だったそうです( 「人民網日本語版」2011年3月11日の記事より)。『ごめん,ごめん。読みまちがってたわ。そもそも王の母親のために造った青銅器なのに,『司母』って意味不明だと思ってたんだよね。わりぃ』……」
そんな態度とってたら,『ごめんは1回!』って怒られそうだよね
「まちがいないですね! この『后母戊鼎』は,高さ137cm,長さ110cm,幅77cm,重さは875kg。耳つきの風呂桶に四本脚をつけたような形をしています」

后母戊鼎。角ごとに饕餮文,耳部分には虎に食べられる人のレリーフがある


「もちろん,こんな大きなものを1つの鋳型で造るのは無理ですよ」
だよね。そもそも,875kgの溶けた青銅って,持ち上げるの,すげー大変だもんね
「70個のパーツに分けて,300人がかりで一斉に鋳造したみたいです。そのあと,パーツを合わせてくっつけたんですって」
想像もつかないけど,熱くて,重くて,相当な権力がないとそんなもの作らせられないことはわかった
「そこらの諸侯レベルでは,800kgを越える青銅を集めることもできなかったでしょうね」


 殷の紂王 

殷の青銅器はおおむね祭祀用のものです。人面文(じんめんもん)にせよ,饕餮文(とうてつもん)にせよ,虎文(こもん)にせよ,夔龍文(きりゅうもん)にせよ,見るものに恐怖を与えるために鋳込まれました」
祭政一致の神権政治ってやつだね
「そうです。エジプトのファラオみたいなものです」
でも,酒の飲みすぎで天罰が下ったんでしょ
「殷周革命の中心人物で孔子のアイドルの周公旦(しゅうこうたん)は『殷の民がこぞって酒を飲み、その酒の臭いが天にまで届いたので、天は殷を滅ぼすようにと天命を下したのだ』と言っています(『書経』酒誥)。殷の紂王(ちゅうおう)は酒浸りで,『七日七夜』にわたって酒宴つづけたそうですし(『新序』刺奢),『酒を以て池と為し,肉を懸けて林と為し』,裸の女性千人余りにその間を走らせた『酒池肉林』の逸話(『史記』殷本紀)でも有名ですよね」
酒池肉林って,夏の桀王じゃなかったっけ?
「両方です」
両方?
「紂王をモデルに桀王の逸話を作ったと考えられています。例えば,夏の桀王には彼をたぶらかした妹喜(ばつき)がいて,殷の紂王にも彼をたぶらかした妲己(だっき)がいます」
傾国(けいこく)の美女ってやつだね
「そうです。この二人に,周の幽王をたぶらかした褒娰(ほうじ)を合わせて三大傾国と呼んだりします。夏・殷・周,三つの王朝は,どれもこれも美女にたぶらかされて滅びたことになってるんです
女って怖いね
「せんぱいも気をつけてくださいね」

  1. 夏:桀王/妹喜/酒池肉林
  2. 殷:紂王/妲己/酒池肉林
  3. 周:幽王/褒娰

「紂王は『炮烙(ほうらく)の刑』でも有名ですね。銅の柱に油を塗り,炭火でちんちんに熱したあと,罪人にその上を歩かせるという刑で,柱を渡り切れたら無罪放免という約束だったのですけど,渡り切れたものはおらず,みな焼け死んだそうです」
無罪放免って夢を見せるあたりがひどいね

映画『カイジ~人生逆転ゲーム』より。地上74mの鉄骨渡り


「人が焼ける音と臭いを妲己は楽しんだんですって。これだけ聞くと,サディスティックな女だなと思いますけど,のちの呂后(りょこう)がやってみせた『人彘(じんてい)』とか,エリザベート・バートリの『鉄の処女(アイアン・メイデン)』とかの逸話を聞いたあとだと,割とましな方かもと思えてきます」
すっかり人間に絶望した目をしてるね
「……ま,こんなことを繰り返していたので,天下の諸侯はみな紂王を見限って,渭水盆地を治めていた西伯に心を寄せるようになります。この西伯こそ,のちの文王です。文王が志半ばで死んでしまうので,結局,紂王を倒すのはその息子の武王ですけど」
親子で文・武なんだね
「はい。このあと,紂王の叔父の比干(ひかん)が命がけて紂王を諫(いさ)めます。このままでは天命を失って,殷を滅ぼしてしまうぞ,というわけです。すると,

妲己「あら,この人,聖人として名高い方ですよね」
紂王「世間ではそう言われておるな」
妲己「陛下は疑っておいでなのですね。ふふ。わたし……聖人の内臓には七つの穴があるって話を聞いたことがあるんですけど……」
紂王「ほう。それは,それは。それでは,奴が本当に聖人かどうか確かめてみようか」

ということで,比干は解剖されてしまったそうです」
……聖人じゃなくても内臓に七つくらい穴が開いてそうだけど
「胃だけでも,入口と出口で二つありますものね。比干が解剖されるのを見て,もう一人の叔父の箕子(きし)は狂ったふりをしたそうです」
で,いよいよ武王が紂王討伐の軍を出したわけだ
「はい。周軍4万5000がなんと殷軍70万を牧野の戦いで破りました。殷軍の将兵は紂王のために命がけで戦う気はなかったわけです」
ずいぶんとジャイアント・キリングだね
「J2のチームがペップ監督時代の最強バルサを倒すようなものですね。モチベーションって大事だなと痛感しました」



2016年5月5日木曜日

中国史/古代/夏・殷・周

STEP 3             


 殷の始祖はツバメの子 

「せんぱい,殷の始祖は契(せつ)と言うんですけど,誕生秘話がなかなかのものなんです」
どんななの?
「契の母親の簡狄(かんてき)は,五帝のひとり帝嚳(こく)の次妃だったんですけど,ある日,川で水浴びをしていたところ,玄鳥(つばめ)が卵を落としていったんです」
巣に,じゃなくて?
「はい。巣に,じゃなくて」



スズメ目ツバメ科。全長約16cm。卵は長経2cm,短径1cmほど。



「で,その卵を拾って飲んだところ,契をみごもったんですって」
落ちてるものを食べたらダメって教わらなかったのかな
「教わってたら,殷王朝は始まらなかったでしょうね」
じゃあ,紂王の豪快なエピソードもなくなるわけだ
「残念ですよね!」
ところで,殷王朝って,なんで夏王朝に取って代わったの?


 夏の桀王 

「夏王朝の最後の王は,桀王(けつおう)と言うんですけど,この王がどうしようもない王で,殷の紂王とともに暴君の代名詞になってます」
どんなことをしたの?
「せんぱい,期待に満ちた顔をしてますね。ちょっと引きました。……ま,大したことはしてないですよ。征服した国から奪った絶世の美女――妹が喜ぶと書いて妹喜(ばつき)に入れ込んで,やたら豪華な宮殿を造営したり,ぜいたくの代名詞『酒池肉林』を楽しんだり,高価な絹を引き裂いたり……」
えーと,絹を切り裂く?
「女性の悲鳴のような,すごい音がするんですけど,その音を聞くと,妹喜が笑ったんだそうです」
? 悲鳴のようなのに?
「悲鳴のようなのに。桀王は彼女の笑顔を見るためだけに,高価な絹を次々と裂いてゴミにしたんです。それから,王の愚行を止めようとした関竜逢をまさかりで一刀両断にしてます」
なかなかパワフルだね
「そうなんです。で,結局,殷の湯王に殺されちゃうんです」


 殷の湯王 

湯王は殷王朝を開いた人です。彼は美味しいものの話を通じて料理人の伊尹(いいん)と仲良くなり,この伊尹に政治をすべて任せます」
大抜擢だね。平野レミさんが料理の話を通じて陛下に気に入られて,いきなり総理大臣に任命されるような感じでしょ
「そのとおりです! 決断力がすごいですよね!」
すごすぎるね
「ですよね! それから,まだ桀王と戦う前なんですけど,湯王が郊外をプラプラしていたら,ある男が網を張って,『上下四方の鳥たちよ,みな我が網にかかれい!』と祈っているところに出くわしたんです。そしたら湯王は『それじゃあ,鳥を獲り尽くしてしまうではないか』と言って,『右に行きたいものは右に行け。左に行きたいものは左に行け。我が命に従わぬものだけ,網にかかれい!』と祈らせたそうです。逃げろ,逃げたくない奴だけ網にかかれ,というわけです」
そんな鳥いるかな?
「さあ。そもそも言葉が通じないですよね。とにかく,これを聞いて諸侯は『湯王の徳は禽獣にまで及んでいる』と言って,感服したんだそうです」
じゃあ,夏の桀王は総スカンを食らってるし,逆に殷の湯王はみなから慕われているし……で,舞台は整ったわけだ
「そうなんです。湯王の戦車部隊がついに鳴条(めいじょう)の戦いで桀王を撃破しました」
戦車!?


これが開発されたのは第一次世界大戦のとき


「ゼッタイ違うのを想像してますよね。チャリオッツの方です」
チャリオッツ!?


これはシルバー・チャリオッツ。J.P.ポルナレフのスタンド


「なんか,まだ違うのを想像してる気がする。四頭立ての二輪馬車です。殷墟からも出土してますよ」
戦車が?
「馬もです」
そのころ,もう戦車があったんだ
「戦車が生まれたのは前2500年ころのメソポタミアで,シュメール人が初めて戦争に投入したそうです。ウルの軍旗(スタンダード)によれば,四輪で,兵士が上から投げ槍(ジャベリン)を投げていて,引いているのはロバだったそうです」
ロバ!?
「ともかく,この戦車が1000年くらい時間をかけて中国まで伝わったわけです。中国で初めて戦車を使ったのが殷だと言われています」
じゃあ,夏は桀王の暴虐うんぬんは抜きにして,この最新軍事テクノロジーに敗れたわけだ
「そうなんです」


2016年5月4日水曜日

中国史/古代/夏・殷・周


STEP 3             

シーナ,王懿栄の話ってかっこいいな
「井戸に投身自殺するところとか?」
外国の軍隊に首都を蹂躙されたから自殺ってさ,憂国の士って感じでかっこいいよね
「ですよねー。民衆を飢えから救うために,責められるのを覚悟で国庫を開いた劉鶚もかっこいいですよね」
かっこいい!
「でも,劉鶚がたまたま漢方薬の『竜骨』に書かれた甲骨文字を見つけたって下り,あれ,ウソだそうです」
えー
「ニュートンのリンゴと同じで,甲骨文字発見の逸話をドラマチックに仕立てたんじゃないかって言われてます」
残念……小説の題材とかになってるのに
「ま,よく広まってる話ってそんなものですよね」





原始時代から春秋戦国時代までを扱う中国古代史の名著。専門的になりすぎず,概説すぎてもいない絶妙なバランス。



 黄帝と蚩尤 

夏・殷・周の前の話って,黄帝とか堯・舜とかいろいろ名前が出てきて,よくわからないんだけど
黄帝(こうてい)とかかっこいいですよ。ライバルの蚩尤(しゆう)と大戦争をするんですけど,この蚩尤もかっこいいんです!」
銅の頭に鉄の額のところとか?
「そうです! ……っていうか,せんぱい,けっこうどうてもいいこと知ってますよね。」
ほっとけ
「そもそも蚩尤は軍神で,斧,剣,戈,戟,鎧,楯,弓矢といった金属製の兵器を開発したとされています。人の身体に牛の頭と蹄を持ち,目は4つ,腕は6本……」
なんだそれ,勇者に退治されるレベルじゃないか

蚩尤。両手・両足・頭に武器を装備。


「そうなんです! ミノタウロスですよね」
誰かテセウスを!
「でも,蚩尤はミノタウロスを越えてますよ。数々の魑魅魍魎を召喚し,雨,風,靄,霧を自在に起こせるんです」
すごい!
「黄帝も負けてないですよ。額に角が生えてますし,虎,豹,熊,羆といった猛獣を操って戦わせるんです。ふたりの軍が――といっても魑魅魍魎v.s.猛獣軍団ですけど――涿鹿の野で衝突したときには,蚩尤が霧を起こして黄帝の軍を包み込んで,黄帝の兵士たちは右も左もわからなくなって混乱するんです」
虎とか豹とかなら,嗅覚で何とかなるんじゃね
「それはスルーで。……で,黄帝はこのとき,『指南車』と呼ばれる,常に南を向く方位磁針を開発して方角を知り,この苦難を乗り越えるんです」
……敵の位置さえわかればいいんだから,方角は関係なくね
「それはスルーで。……ま,とにかく黄帝が勝利して,蚩尤は斬られることになりました。ちゃんちゃん」

なんか,ツッコミどころが多いなあ



 三皇五帝 

で,そろそろ堯・舜とかの話を教えて
「せんぱい,中国で最も有名な歴史書は?」
そりゃ,司馬遷(しばせん)の『史記』でしょ。武帝に大事なムスコを切られたから,その恨みをすべて歴史書編纂にぶつけたっていう
「なんか,いろいろ誤解させるなあ」
で?
「『史記』は歴史の始まりから司馬遷の生きた武帝の時代までを扱った歴史書です。じゃあ,何の話から始まるかと言えば,『五帝』の話からなんです」



訳本があるので,簡単に原典に当たれます。これって幸せなこと。逆に言えば,『史記』を日本語訳で読めるのに,これを読まずに中国古代史を語るのは論外って言われてしまいます。


五帝っていきなり強そうだな
「はい。五帝のラインナップは,筆頭が黄帝で,以下,頊顓(せんぎょく),帝嚳(こく),帝(ぎょう),帝(しゅん)と続きます」
黄帝は猛獣を操ったけど,それぞれ必殺技的な能力を持ってそうだね。『皇帝の眼(エンペラーズ・アイ)』とか。……あれ? 禹は『五帝』に入らないんだ?
「そうなんです。禹は五帝の時代を引き継いだ人物という位置づけです。いずれにせよ,『五帝』は神話や伝説のたぐいですね」
そりゃ,そうだろうね。虎だの羆だのを率いて,鉄の頭のミノタウロスと戦ったなんて,ぜったいウソだと思う

「五帝伝説の誕生には,戦国時代に生まれた五行思想の影響があると言われてます」
五行って,火・風・水・土の四大元素説の中国版?
「はい。五行説の場合は,木・火・土・金・水で,風がなくて,木と金が加わります。火属性のモンスターには水属性の武器や呪文で攻撃を加えるように,五行説でも,水属性のモンスターには木属性の武器や呪文で攻撃すると効果的です」
木属性の武器って,『こんぼう』とか『ひのきのぼう』? ラスボスが水属性だったら,すげえ困りそう
「わたし,素手で『りゅうおう』倒しましたよ」
すごい!
「とりあえず五行説が流行すると,なんでもかんでも五に合わせるようになるんです。色なら青・赤・黄・白・黒,方角なら東・南・中央・西・北,神獣なら青竜・朱雀・黄麟(黄竜)・白虎・玄武という感じで。それで,夏・殷・周の『三代』の前に『五帝』の時代があったことにして,バラバラに伝わっていた伝説の帝たちをその『五帝』に入れたんです。ですから,『五帝』のラインナップも本によってバラバラです」
そうなんだ

「そのあと,『五帝』の前に,さらに『三皇』の時代が付け加えられました。これもラインナップはいろいろですが,基本的に,天皇・地皇・人皇(あるいは泰皇)の三人で,天・地・人に合わせた神さまです。明らかに取ってつけた感があって,エピソードはフワフワしてます」
ま,名前がいきなりそんな感じだよね

「というわけで,まとめると……」



(写真はイメージです)
  • 三皇 (神話の時代。日本で言えば,アマテラスオオミカミとかスサノオノミコトのレベル
  • 五帝 (伝説の時代。高徳の聖王たちの時代
  • 夏・殷・周 (歴史時代。ただし夏は伝説


「という感じです」

ありがとう! 今日はここでお腹いっぱい



2016年5月3日火曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 甲骨文字の発見 


 甲骨文字は,亀の腹甲や牛の肩甲骨に刻まれた古代の文字です。

 その発見については,よくできた話があります。


 時は19世紀末。1899年のこと。清はイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本といった列強の進出に苦しんでいました。これらの国は中国を植民地にしようとしていました。

 清の国子監祭酒(東大総長兼文部科学大臣みたいなもの)の王懿栄(おういえい)は,このころ持病のマラリアに苦しんでいました。マラリアは,蚊を媒介として広がる伝染病で,感染すると1日おきや2日おきに40度近くまで発熱します。治療せずに放置すると,慢性化して,定期的に高熱に襲われるようになります。王懿栄のマラリアはすっかり慢性化していました。

 ある日,王懿栄はこのマラリアの治療薬として漢方薬の「竜骨」を試すことにしました。

もちろん伝説の生き物


「竜骨」とは,もちろん伝説のドラゴンの骨という意味ですが,実際は出土した化石獣骨だったそうです(化石,しかも動物の骨を粉にして飲むなんて、むしろ体に悪そうですけど)。この「竜骨」に「文字らしきもの」が刻まれていることに気づいたのが,食客の劉鶚(りゅうがく)という男でした。字(あざな)を「鉄雲」と言うので,劉鉄雲と書かれていることも多いです。食客とは,要するに居候のことで,劉鶚は王懿栄の家でタダ飯を食らいながら,金石学,水利学,数学,医学など,マルチに研究をしていました。だからこそ,竜骨に刻まれた「失われた古代文字」に気づけたわけです。

 王懿栄と劉鶚は,薬屋からありったけの「竜骨」を入手し,古代文字の研究を始めました。

 翌1900年,義和団事件が起きます。「扶清滅洋」を掲げた農民組織(拳法を身につけた集団で,呪文を唱えれば,銃弾でも跳ね返せると割と本気で信じていました)が,列強=外国勢力を中国から追い払おうとして首都北京に攻め上がり,外国公使館のある区域を包囲しました。これに対し,自国民を救出するため,列強八カ国の連合軍が中国に上陸し,北京を占領しました。このとき,団錬大臣(民間自警組織のまとめ役)を任されていた王懿栄は,これを憤り,毒をあおったのち,井戸に身を投げて自殺してしまいました。

 劉鶚も,義和団事件の混乱の中,政府に無断で国の備蓄米を放出し,民に分け与えて救済したので,その罪を問われて遠く新疆(しんきょう)に流されてしまいました。そうした苦難の中,彼は王懿栄とともに集めた「竜骨」の資料1058片分をまとめ,1903年に『鉄雲蔵亀』を発刊。この中で,「竜骨」に刻まれた文字を「甲骨文字」と名づけ,殷の王が占いに使ったものだと推定しました。

甲骨の「甲」はカメの甲。占いのためにどれだけのカメさんが……。ちなみに,お腹側の甲羅。


 劉鶚は1909年に亡くなりますが,このあと,羅振玉や王国維らの研究が続き,甲骨文字の多くが解読されることになります。



 殷墟の発見 

 問題は「薬屋がどこから『竜骨』を仕入れていたのか」です。


 薬屋の話では,河南省の田舎で農民が土の中から掘り出している,とのことでした。そこで,1928年,「竜骨」が出土する河南省安陽市小屯を本格的に発掘調査したところ,殷王朝第19代盤庚(ばんこう)から最後の第30代紂王(ちゅうおう)まで使われていた王都の遺跡群が見つかりました。

 これが「殷墟」です。殷の人々が「大邑商」と呼んでいた都です。

 ここでは,2万8000余片の甲骨文字資料が見つかり,それを解読した結果,殷王朝後期の系譜を復元できました。その内容は,驚くべきことに,殷滅亡からおよそ900年後に編纂された『史記』が載せる殷王朝の系譜と見事に一致しました。


 こうして殷王朝の実在が確認されたのです。


2016年5月1日日曜日

中国史/古代/春秋戦国

 戦国時代の社会経済的変化② 

 戦国時代の社会経済的変化は「宗族の崩壊」ともう1つあります。

 それは「商人の台頭」です。

 「士農工商」という言葉があるように,商人の身分は最下位でした。扱いは犯罪者とほとんど変わらないです。

 周が成立したのち,殷(商)の人々は自分たちの国を失い,各地を放浪していました。このとき,彼らは放浪先の魯(ろ)で手に入れた特産品を,次の放浪先の斉(せい)で売り払って生活費を得るという仕事を始めました。各地の都市(邑)に定住している人々は,殷(商)の人々がやって来ると,自分たちの地元では手に入らない珍しい物を手に入れ,代償として余っている物を彼らに渡しました(主流は物々交換。宝貝や子安貝の殻を貨幣として使う「貝貨」はありましたけど)。こうしたわけで,品物を売買することを「商業」,売買する人を「商人」と呼ぶようになった……という話があります。

 商人(殷の人)は「負け組」なので,出だしから周の人に蔑まれる立場にありました。そのうえ商人は,生産にまったく寄与せず,人が精魂込めて作ったものを,右から左に受け渡すだけで利益を得ているので,「盗人扱い」されました。運ぶだけなら無償でやれ,というわけです。

 物々交換経済で,商品の多くが農産物なので,交易の範囲はごく狭い範囲でしたし,商人の手元にはさほど利益は残りませんでした。何せ農産物はやがて腐敗するので,長距離運搬・長期保存には向かなかったのです。

 ところが,戦国時代に入り,青銅貨幣が用いられるようになります。諸侯は富国強兵のために競って青銅貨幣を鋳造したので,ずいぶんと普及しました。商人はアワだのコメだのを青銅貨幣に交換することで,たくさんの富を蓄積できるようになりました(アワをたくさん蓄えてもやがて腐るだけだけど,青銅貨幣ならいつまでも腐らないからです。錆びて青くなるけど)。

 ちなみに,受験では青銅貨幣の整理が頻出です。


  • 布銭 :韓,魏,趙 / 農具を象ったもの(凸っぽい
  • 円銭 :秦 / 「天円地方」を象ったもの(つまり円形。穴は四角
  • 刀銭 :斉,燕 / 刀を象ったもの
  • 蟻鼻銭:楚 / 蟻の頭を象ったもの(つぶつぶ


 考古学的調査をもとに青銅貨幣の流通範囲を復元すると,すでに地中海交易圏や北海・バルト海交易圏クラスの広大な交易圏が中国に生まれていたことがわかります。各国が商業育成に力を入れたこともあって,王を上回る権勢を誇る富裕な商人も生まれました。マンガ『キングダム』で有名になった,秦のキングメーカー呂不韋(りょふい)が有名です。

 これが「商人の台頭」です。

 戦国時代には戦争の主役も変わりました。それまで戦場に立てるのは,下級貴族の「士」以上の身分のものに限られており,彼らが操る「戦車」「弓矢」が戦争の主役でした(まさに「武士」の「士」)。ところが,戦国時代には徴兵制が広く行われ,農民が兵卒として動員されるようになります(そうでなければ,『キングダム』の主人公「信」は従軍できませんでした)。軍隊は文献で「六十万」「八十万」「百万」と表現される規模に拡大しました。農民が戦争の主役となり,一方,「士」は戦争の脇役に転じて,その役割を失います。

映画『英雄HERO』より。見るものを圧倒する軍隊。

 こうして,西周以来の封建的な身分秩序はすっかり崩壊しました。「士農工商」の「士」が没落し,「商」が成り上がったのがその象徴です。各国は封建制に代わるシステムを模索し,試行錯誤します。結局,秦がどこよりも早く「郡県制」と呼ばれる中央集権体制を完成させていくことになりますけど。

 なお,そうした中,各国を遊説して数々の政策を提案する集団が現れました。彼らを「諸子百家」と呼びます。



【関連】
戦国時代の社会経済的変化①「宗族の崩壊」編
[中国史]春秋戦国時代


中国史/古代/春秋戦国

 戦国時代の社会経済的変化① 

 戦国時代と言えば,社会経済の変化です。山川出版社の『詳説世界史B』にも,

「中国では春秋時代中期以降,鉄製農具の使用や牛に犂を引かせる耕作方法(牛耕)が始まって農業生産力がしだいに高まり,小家族でも自立した農業経営が可能となったため,氏族の統制はゆるんでいった。また戦国時代の富国策によって商工業が発展し,青銅の貨幣ももちいられるようになり,大きな富をもつ商人もあらわれた。このような社会経済の変化にともなって,周代の世襲的な身分制度はくずれ,個人の能力を重んずる実力本位の傾向がこの時代の特色となった。各国の内部では身分にとらわれない有能な人材の登用がおこなわれ,君主に権力が集中してくるのも,このような時代風潮と関連している。」
(山川出版社『詳説世界史B』)  

と取り上げられています。

 まずはポイント。

  1. 鉄製農具牛耕農法が中国社会に大きな変化を与えた
  2. 西周以来の社会秩序を支えていた宗族が崩壊した
  3. 実力本位の時代が到来し,やがて中央集権体制を生んだ
 

うーーーーーーー

 
 ちょっと大変だからがんばってくださいね。
 
 戦国時代に入り,「周代の世襲的な身分制度」,つまり西周以来の封建制が崩壊しました。そのあと,皇帝が万民を支配する中央集権体制が生まれます。

 それはなぜでしょうか。

 答えは「社会経済の変化が数百年続いた社会秩序を吹き飛ばしたから」です。

 封建制を支えていたのは宗族です。同じ氏姓の一族という意味でしたね。同じ祖先を共有しており,その祖先の祭祀を通じて結束する父系の血縁集団です(母方の家系は宗族には入りません。例えば,周王の娘〔姫姓〕が他姓の人間と結婚して息子を生んでも,その息子は周王と同じ宗族とは見なされません。その父親の宗族の一員と見なされます。また同じ宗族の人間と結婚して,父方の親戚も母方の親戚もみな同じ宗族だという事態も絶対に生じません〔同姓不婚の原則〕)。

 周王は同じ宗族の人間(叔父や従兄弟)に「邑」=封土(ほうど)を与えて諸侯とし,その土地の統治を任せました。王にとって最も信頼できるのが同じ一族の人間だからです。周王は諸侯にとって本家の当主(一族のリーダー)ですから,分家筋の諸侯はこの王に従うしかありません。宗族には宗法と呼ばれる鉄の掟があり,これが一族を結束させていました。

 王は一族を封建して諸侯を立て,諸侯も一族を封建して卿や大夫を立てました。諸侯が王に服従するのは,王が同じ一族で本家の当主だからです。卿や大夫が諸侯に従うのも,諸侯が同じ一族で本家の当主だからです。ですから,人々が宗族や宗法を意識しなくなると,諸侯は王に服従しなくなり,卿や大夫も諸侯に服従しなくなります。同族を殺してその財産を奪うなんてことも起きるようになります。

 みなさんも,自分に親戚がいて,彼らも一応「同じ姓を名乗る一族」だという意識はあっても,誰が一族の当主かはわからないし,「一族のために尽くす」なんて気持ちは持てないですよね。ところが,西周時代には,人々は自然と「本家の当主を敬い,その指導に従うべきだ」と思ってましたし,「一族の掟=宗法を守るのが当然だ」「一族のために尽くすのが自分の務めだ」と普通に思っていました。

 それは,一族みなで助け合わなければ,生き残ることができなかったからです。十人がかりで十二人分の食糧をどうにかこうにか作り出すような時代には,仮にどこかで作付けに失敗したり,洪水や日照りにあったり,戦争に巻きこまれたり,働き手が病気が倒れてしまったりと,ちょっとしたトラブルが起これば,いきなり餓死に直結しました。ところが,大きな集団で助け合えば,どこかが不作でもどこかは豊作かもしれませんし,あるいは,不作で困っている家に自分の家の食糧を分けてあげるとしても,負担は少しで済みます。

 生き残るには,宗族の助けが必須なわけです。



 ところが,戦国時代には,鉄製農具牛耕農法が普及して,生産力が大きく向上しました。これまで十人がかりで農作業をしていたのが,三人で済むようになったところを想像してください(極端ですけど)。一族総出で農作業をする必要もなくなり,五人程度の小家族でも十分に農業を営んでいけるようになりました。これを「小家族でも自立した農業経営が可能になった」と表現します。宗族みんなの力を借りなくても,もう大丈夫なわけです。人々の意識は「宗族」単位から「戸」単位になっていきました(親戚とか本家はどうでもよくて,自分の家族だけが大事)。みなさんの親戚に対する感覚に近くなったと思ってください。




 宗族なんてどうでもいい! 本家は分家に対してグダグダ言ってんじゃねえよ! となります。富国強兵を進める各国が,1つにかたまって住んでいた宗族に分家を強制し,辺境に送り出して開墾を進めたことも,宗族の崩壊に拍車をかけました。宗族がバラバラになって各地に分散してしまったのです。

 国としても,宗族単位では統治できなくなります。例えば,国が宗族のリーダーに租税を納めるように要請しても,他の宗族のメンバーがリーダーの言うことに従わないので,なかなか租税を集められません。結局,「戸」ごとに名簿を作って(これを「戸籍」と呼びます),それぞれから租税を集めるしかないわけです。

 こうして,宗族・宗法を基礎としていた西周以来の封建的な身分秩序は成り立たなくなりました。王や諸侯が「宗族」単位で人民を支配していたシステムが崩れ,王がダイレクトに(間に諸侯だの卿だのを挟まず)「戸」単位で万民を支配する中央集権体制が生まれることになります。

 というわけで,まとめ。

戦国時代には,①鉄製農具や牛耕農法が普及して生産力が向上し,②小家族による農業経営が可能になった結果,③宗族を基礎とする封建的な身分秩序が崩壊した。

ふむ


(「戦国時代の社会経済的変化②」につづく)