STEP 1
- 戦国時代に終止符を打ったのは秦王政。
- 秦は郡県制と呼ばれる中央集権体制で,中国全土を支配した。
- 短命に終わった。
STEP 2
「戦国の七雄」(秦,斉,楚,燕,韓,魏,趙)のうち,他の六国を滅ぼして中国を統一したのは秦(しん)です。
商鞅変法
秦が強くなったきっかけは商鞅変法(しょうおうへんぽう)です。「変法」とは政治改革のことで,戦国時代前期には魏の李悝(りかい)や楚の呉起(ごき),韓の申不害(しんふがい)など,多くの変法家〈=改革者〉が生まれ,おおむね封建制の弊害を排除し,法制度を整えて,君主を頂点に置く中央集権体制の構築を目指しました。商鞅(しょうおう)はそうした変法家のひとりです。
彼は秦の孝公(こうこう)に仕え,前356年と前350年の2度にわたって政治改革を断行し,法制度を整備して,中央集権体制を築きました。始皇帝よりも130年ほど前の人物ですが,その政策は,県制の施行,度量衡の統一,焚書など,統一秦のものを先取りするような内容でした。
- 県制:小さな邑をまとめて「県」とし,令(長官),丞(補佐)を置く。封建制では,封建君主が封邑を自分のものとし,息子に相続させていた。県制では,「県」はあくまで中央のものであり,中央から派遣された県令が中央の指示通りに統治を行った。ちなみに,複数の「県」をまとめて「郡」を設置すると,「郡県制」になる。
- 度量衡の統一:「度」は長さ,「量」は体積(多さ),「衡」は質量(重さ)を指す。「度」を測る「ものさし」,「量」を量る「ます」,「衡」を量る「はかり」を統一することを「度量衡の統一」と呼ぶ。今でも,重さの単位が「ポンド」だったり「キログラム」だったりすると,とても混乱するけど,当時も同じ。商鞅はそれを統一した。
- 焚書:『韓非子』和氏篇に「詩書を燔(や)きて法令を明らかにす」とあって,商鞅が詩書を焼いたこと,それは法令を明確にするためだったことがわかる。
商鞅方升。上海博物館蔵。
実際に商鞅が度量衡を統一したときにつくらせた「ます」。左側面に商鞅が升の基準を定めたこと,右側面に始皇帝が天下統一したのち,度量衡を統一したことが刻まれている。つまり,商鞅の定めた升が始皇帝まで使われていたということ。感動。
商鞅は法の運用を徹底するために,相手が孝公の息子であっても容赦なく「鼻そぎの刑」にしました(法に例外があってはならない)。そのせいで公族から怨みを買い,孝公の死後,「車裂きの刑」にされてしまいます。しかし,彼の作った法律・制度は受け継がれ,天下統一の基礎となりました。
秦王政
名は「趙政(ちょうせい)」「嬴政(えいせい)」。前259年の正月に生まれたので,「政」と名づけられたとのこと。「高い鼻筋,細長い目,猛禽のような胸,山犬のような声で,恩情に乏しく,虎狼のような残忍な心の持ち主」だったそうです。
父は子楚(しそ)といい,このとき趙に人質として送り出されていた秦の王子でした。この不遇の王子に目をつけたのが大商人の呂不韋(りょふい)です。彼は「奇貨居くべし」〈=こんなに優れた商品は手元に置いておかねばなるまい〉として,子楚を秦王にすべく巨万の富をつぎ込みます。奇貨とは,やがて必ず値上がりする投資商品のことです。
子楚は趙の邯鄲(かんたん)に滞在している間,呂不韋の愛姫に惚れて彼女を所望します。呂不韋は「奇貨」を手放すわけにはいかないので,泣く泣く愛姫を子楚に献上しました。一年後,彼女は子どもを産みました。その子が政です。『史記』によれば,子楚が惚れる前に彼女はすでに呂不韋の子を妊娠しており,したがって政は呂不韋の子だと明言しています(ただし妊娠期間は「12か月」だったそうで,十月十日(とつきとおか)=約280日間をだいぶ超えています)。
その後,子楚は首尾よく即位して荘襄王となり,次いで前247年に政が即位します。もちろん呂不韋は荘襄王と秦王政の二代に宰相として仕え,栄華を極めます。投資がものの見事にうまくいったわけです。
始皇帝の研究者と言えば,この人,という感じの鶴間和幸先生の著書。始皇帝の生涯を丁寧にたどりながら,これまでの研究成果や新資料を踏まえて,従来のものとは違う始皇帝像を復元します。劇的に変わるわけではないのが,よい感じです。冒頭で始皇帝の名前が「政」から「正」に変わったのはびっくりしましたけど。
嫪毐の乱
前238年,嫪毐(ろうあい)の乱が起きます。「始皇帝の生涯で最大の内乱事件」(『人間・始皇帝』)です。
嫪毐は呂不韋が後宮に送り込んだ宦官です。宦官(かんがん)とは,君主のお側にいて雑役に従事する去勢された男(生殖器を失った男)のことですが,嫪毐はひげを抜いてそう装っていただけで,実は立派なモノを持っており,車輪をひっかけて回せるほどでした。
呂不韋が彼を後宮に送り込んだのは,自分の不倫に終止符を打つためでした。呂不韋の不倫相手は秦王政の母です。彼女はもと呂不韋の愛姫であり,二人の関係は政が王に即位したのちも続いていました。王の母〈=太后〉との不倫は,呂不韋にとって命取りになるスキャンダルです。そこで,嫪毐を送り込んで,彼女の気をそちらに移してしまおうと考えたわけです。ところが,嫪毐は太后との間に密かに二人の子をもうけたばかりか,政を排除して,その子を秦王にしてしまおうという陰謀を企てました。
前238年,嫪毐(ろうあい)の乱が起きます。「始皇帝の生涯で最大の内乱事件」(『人間・始皇帝』)です。
嫪毐は呂不韋が後宮に送り込んだ宦官です。宦官(かんがん)とは,君主のお側にいて雑役に従事する去勢された男(生殖器を失った男)のことですが,嫪毐はひげを抜いてそう装っていただけで,実は立派なモノを持っており,車輪をひっかけて回せるほどでした。
呂不韋が彼を後宮に送り込んだのは,自分の不倫に終止符を打つためでした。呂不韋の不倫相手は秦王政の母です。彼女はもと呂不韋の愛姫であり,二人の関係は政が王に即位したのちも続いていました。王の母〈=太后〉との不倫は,呂不韋にとって命取りになるスキャンダルです。そこで,嫪毐を送り込んで,彼女の気をそちらに移してしまおうと考えたわけです。ところが,嫪毐は太后との間に密かに二人の子をもうけたばかりか,政を排除して,その子を秦王にしてしまおうという陰謀を企てました。
前238年,嫪毐は政が成人の儀を行う隙を突いて挙兵しました。これが嫪毐の乱です。しかし,わずか十日ほどで戦いに敗れて,彼とその一党は全員処刑されてしまいました。このとき,嫪毐と太后の関係だけでなく,呂不韋と太后の関係も発覚し,呂不韋もその罪を問われて処罰されました。秦王政が成人して親政を開始すると同時に,その父・荘襄王から宰相として政治の実権を握ってきた男が退場することになったわけです。なお彼が服毒自殺をするのは二年後のことでした。
(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿