2016年4月30日土曜日

中国史/古代/新石器時代

 中国の城壁 





今日は中国の城壁についてお話ししましょう。ところで,みなさん,城壁はどうやって作ると思いますか?
「石!」
「レンガ!」
「日干しレンガ!」
「コンクリート!」
「『人は城、人は石垣、人は堀』」
みなさん,元気いいですね。だれひとり,主語・述語を備えた文ではなかったですけど。あと,ひとり武田信玄が混ざってましたね。でも,とにかく,そのとおりですよ。通常,城壁は石やレンガで作られます。中には,泥を固めて作った日干しレンガ製のものもあります。インカ帝国は間に紙も入らないほど精密に組まれた石の壁で有名ですし,日本のお城も,それと比べればかなり雑ですけど,だいたい石垣を備えています


熊本城。加藤清正の作った名城。残念ながら,石垣は崩れてしまいました。



中国の城壁は『版築』と呼ばれる技法で作られ……
「せんせい! 『ばんちく』って何ですか?」
食い気味に来ましたね。興味が先走りするのは良いところですよ。いま説明します



万里の長城。現在のものは明代に修築されたもの。全長21,196.18km。地球半周分。


中国を代表する黄河の中流から下流にかけては,大量の『黄土』が堆積しています。黄土というのは,砂よりも細かく,粘土よりは荒い土で,水に触れるとすぐ崩れます。黄河の上流にはその名も黄土高原という,黄土が表面を厚く覆っている高原があって,黄河はこの高原を流れるとき,黄土を容赦なく削っていきます。『水一石のうち六・七斗は泥』,つまり水を汲んでも六割がたは泥と言われるほど,黄河は大量の黄土を含んでいて,これを中流から下流にかけてせっせせっせと運んでいきます
「せんせい! ばんちくは? ばんちくー」
これからですよ。で,この黄土は水に触れるとすぐ崩れるくせに,突き固めるとものすごく強くなってカッチカチになるんです。カッチカチに
「ゾックゾクしますね!」
でしょう。要するに,黄河中下流域には豊富に黄土があるので,中国の人たちはこれを利用して城壁を作ったんです
「そろそろ,ばんちくですね! ばんちくー」
そうです! 『版築』というのは,まず木の板で四角い枠を作ります。そこに,黄土をどさどさと放り込んで,あとは人が上からぶっとい木の棒でドスッドスッと突き固めます。すると……。
「カッチカチ!」
そう。カッチカチです。カッチカチ。そうしたら,また黄土をどさどさと放り込んで,また上からドスドスと突きます。どさどさ,ドスドス,どさどさ,ドスドス……と,40回から50回ほど繰り返すと,高さ2~3mの城壁の完成です
「1回の作業で,5cmとか7cmくらいしか高くならないんですね」
それ,いま計算したんですか?
「はい」
そうですか。むむ。中国最古の『版築』跡は鄭州市の西山遺跡で見つかっています。前3300~前2800年ころの遺跡で,仰韶文化の終わりころです。幅4m,高さ2mほどで,作りも雑です。竜山文化期に入って,『竜山文化』の名前の由来となった山東省竜山鎮の城子崖遺跡では,かなり整った版築城壁になりました。層が相当キレイにできているそうです」
「ソウがソウ当キレイにできているソウです……」
何か言いたいことがあるんですか。……まあ,いいです。城子崖の城壁は周長1680m,高さ2~3mでしたけど,殷の初代湯王の都城とされる『鄭州商城』遺跡になると,周長7km,幅20m,高さ10mもある版築の城壁が姿を現しました。これだけの城壁を築くには相当な労力が必要だったはずです

  • 西山遺跡 / 仰韶文化
  • 城子崖遺跡/ 竜山文化
  • 鄭州商城 / 二里岡文化

始皇帝が築いたとして有名な『万里の長城』も版築で作られました。現在,見学できる長城は明代に作られたもので,焼きレンガで補強された頑丈で立派なものです。でも,始皇帝のころは泥を突き固めただけの,幅4m前後,高さ2mほどの粗末なものだったと言われています。いま確認されている長城は2万kmを越えますが,始皇帝のものはほぼほぼ跡形もなくなっているので,どれくらいの規模だったかもよくわかっていません

ここからなら見える


「せんせい! 万里の長城って月から見えるって本当ですか?」
絶対に見えないそうです。でも,国際宇宙ステーションからなら,上空約400kmのところを周回している程度なので,十分見えるそうですよ

「せんせい,割と子どもの夢クラッシャーですよね」

2016年4月29日金曜日

中国史/古代/春秋戦国

STEP 1             

  1. 周は犬戎の侵攻を受けて洛邑に遷都した。
  2. 東周時代はさらに春秋時代と戦国時代に分かれる。
  3. 戦国時代には「諸子百家」と呼ばれる思想家が活躍した。


STEP 2             

 周の東遷 

 前770年,周は「犬戎」と呼ばれる異民族の侵入を受けます。都の鎬京は陥落し,東方の洛邑(現在の洛陽)に遷都するハメになりました。この事件を「周の東遷」と呼びます。なお,中国史では,それ以前の,鎬京を都とした周を「西周」,洛邑遷都後の周を「東周」と呼び分けています。

 西周:都 鎬京
 東周:都 洛邑

 東周は,さらに「春秋時代」と「戦国時代」に区分されます。


 春秋時代 


春秋時代」は,孔子が編纂したとされる編年体の歴史書『春秋』にちなんだ名前です。始まりは前722年。『春秋』の記録がこの年から始まるからです。


 覇者 

 春秋時代の特徴は「覇者」です。
 東遷を機に,周王室の権威は失墜しました。周王が諸侯に号令をかけても誰も従わなくなったのです。諸侯たちは封土を受けた恩をすっかり忘れました。すると,諸侯の中で軍事力・経済力に優れた有力者が,周王に代わって号令をかけるようになりました。「覇者」とは,この有力諸侯を指します。覇者は他の諸侯に集合するよう号令し,「尊王攘夷」のスローガンのもと,集まった諸侯たちに,ともに周王室を尊崇し(尊王),力を合わせて蛮夷を攘(う)ち払う(攘夷)よう誓わせました。これを「会盟」と呼びます。一堂に会して盟約を結ぶという意味です。儀式の最後には,覇者が犠牲として神に供える牛の耳をとり,刃で傷をつけ,流れ出た血をすすって神に誓いました。ここから「牛耳をとる」→「牛耳る」という言葉が生まれたそうです。

 このころ,長江流域に「」という強国が生まれており,楚の君主は「楚王」を称して,自分は周王と対等の存在であるとアピールしていました(「鼎の軽重を問う」)。「攘夷」の「夷」とは,この楚王を指します。のち黄河流域の諸侯が楚王の号令に従うこともあったので,楚の荘王も覇者の1人になりました。それどころか,同じく「夷」の国とされる「呉」「越」(ともに長江流域)の,呉王夫差越王勾践も覇者になっています。この時代を代表する五人の覇者を「春秋の五覇」と総称しますが,そのメンバーは,斉の桓公晋の文公,楚の荘王,呉王夫差(あるいは,その父の闔閭),越王勾践で,五人中三人がなんと「夷」国の王です。


 戦国時代 


戦国時代」は,前漢の劉向が編纂した『戦国策』にちなんだ名前です。前403年に始まります。この年,晋の卿である韓氏・魏氏・趙氏が,周王から新しく諸侯として認められたことをきっかけとしています。


 下克上 


 戦国時代の特徴は「下克上」=実力本位の風潮です。
 春秋時代には「尊王攘夷」のスローガンに出ているように,周王の権威がまだ残っていました。覇者は周王を尊崇する姿勢を,形だけとはいえ,保っていました。ところが,戦国時代には,諸侯たちが「王」号を称するようになります。「戦国の七雄」と総称されるのビッグセブンは,いずれも王を称しました(楚王は春秋時代からずっと)。彼らは,周王と並ぶ存在,あるいは,周王に代わる存在だと,それぞれ自任していたわけです。王にふさわしい実力があれば,王号を称してもよい,諸侯にふさわしい実力があれば,主君を倒して新しく諸侯になってもよい――「下克上」〈=下位の者が実力で上位の者を超克する〉が,この時代の風潮でした。卿の韓氏・魏氏・趙氏が主君の晋氏を倒して新しく諸侯になったことを「戦国時代の始まり」と見なすのは,こうした理由からです。



(つづき)

戦国時代の社会経済的変化①「宗族の崩壊」編
戦国時代の社会経済的変化②「商人の台頭」編


世界史全般/古代

 都市って何? 

 都市と村落の違いって,そもそも何でしょう?

このころは都市とかはない


 人がたくさん住んでいれば,「都市」と言えるような気もします。でも,住民が数万人いたとしても,全員が農業従事者で,住んでいるのは粗末な家ばかりで,見渡す限り田んぼが続くような町を「都市」と呼ぶのは抵抗があります。

 そのような町なら「村落」とか「集落」と呼びたくなりますね。

 考古学の現場では,「人が住んでいた跡」と思われる遺跡を発掘するとき,それが「村落」なのか「都市」なのかが大問題になります。「都市」なら,そこに進んだ文明があったことになるからです。

 それでは,「都市」と定義するための条件とはいったい何でしょう?

 1950年,考古学者のチャイルドが「都市革命 Urban Revolution」論を唱え,そこで都市の条件を10項目挙げています。噛み砕いて表現すると,


  1. 大きくて,人がたくさん住んでいる
  2. 農業以外の職業(鍛冶屋や運送屋や商人)に従事する人がいる
  3. 余剰生産物(自分たちが食べる分以上に余分に作った農産物)を誰か(神官や王,あるいは,その両方を兼任している人)に納めている
  4. 神殿などの巨大な建造物がある
  5. 支配階級(肉体労働者ではなく知的労働者)がいる
  6. 文字記録がある
  7. 暦,算術,幾何学,天文学が発達している
  8. 芸術(壁画とか彫像とか)がある
  9. どこかと遠距離交易をして奢侈品や原材料を輸入している
  10. 支配階級(王や神官)に専門に雇われている職人もいる


これは都市。大聖堂もある

 チャイルドの考えは,①灌漑農業が始まり,②住民が食べきれないほどの食糧を生産できるようになると(余剰生産物),③住民全員が農業に従事しなくてもよくなるので,④農業以外の職業従事者(職人や商人)も生まれて「社会の分化」が進み(村落では全員が農民だけど,都市ではいろんな職業の人がいて,中には神官や王のような「人を支配すること」を職業とする人まで現れるということ),④やがて「都市の条件」がそろう,というものです。

 少なくとも,いきあたりばったりに大集落ができたのではなく,何らかの計画性があって,その計画をリードした人たち(支配階級)がいて,神殿やピラミッドのたぐいがあったら「都市」と考えてよいです。


都市計画


 中でも大事なのは「城壁」です。

 黄河文明で言えば,前期の仰韶文化期には,集落を濠(ほり)で囲って防御力を高めた「環濠集落」はありましたが(半坡遺跡),城壁はまだでした。でも,後期の竜山文化期に入ると,高さ2〜3mの城壁が姿を現します(城子崖遺跡)。

 中国古代史では,城壁で囲まれた集落を「(ゆう)」と呼びます。

 ここまで来ると「都市」と定義できるものも,ちらほら出てきます。前1800年ころのニ里頭遺跡では,宮殿と青銅器工房の跡も見つかっているので,これは「都市」です。時期的に考えて夏王朝(前2070〜前1800)の都の1つではないかと言われているのも,うなずけますね。

 というわけで,考古学者は今日も「都市」の遺跡を探し求めて,世界中で地面を掘っています。

2016年4月28日木曜日

中国史/古代/夏・殷・周

STEP 3             


 殷と商のちがいって   

シーナ,ちょっと聞いていい?
「なんですか,せんぱい」
殷って必ず『殷(商)』って書かれてるんだけど,この『(商)』ってどういう意味? カッコショウって。どっちも同じ?
「基本的には同じだけど,『殷』は王朝の名前で,『商』は都の名前なんです。甲骨文字では,殷の人々は自分たちのことを『商』って呼んでるから,彼らのことを商と呼ぶべきだ,という意見もありますよ。わたしは王朝の名前である『殷』で覚えるべきだと思ってますけど」

(写真はイメージです)


 王朝って何?      

……あの,今さらだけど『王朝』って,何?
「……」
ちょっと,その呆れた感じの目,やめてもらってもいい? なんか興奮する
「……王朝は,国王とか皇帝の地位を代々世襲する家系のことです。例えば,北朝鮮は,建国以来,金日成→金正日→金正恩と,三代にわたって国家元首の地位を世襲しているから,『金王朝』と呼ばれたりしてます。同じように,殷では,姓が『子』の家系が代々王位を世襲してました。この子姓の王朝を『殷』と呼んでます。ちなみに,次の周は姫姓の王朝です」
じゃあ,殷とか周っていうのは,国の名前じゃないんだ?
「違いますよ,せんぱい。フランス史で,フランク王国,メロヴィング朝,カロリング朝って習うじゃないですか。『フランク王国』が国の名前で,『メロヴィング朝』と『カロリング朝』が王朝の名前です。中国の場合は,国の名前はなくて,王朝の名前だけ勉強してるんです」


 禹ってだれ?      

「ところで,せんぱい,(う)ってかっこいいと思いません?」

(写真はイメージです)


歩いたあとが北斗七星になるところとか?
「そこもかっこいいですよね」
でもさ,伝説の聖天子の(ぎょう)は有徳者の(しゅん)に帝位を譲ったし,舜も有徳者の禹に帝位を譲ったけど,禹は実の息子に帝位を世襲させて夏王朝を開いたわけでしょ。堯・舜と比べるといちだん落ちる気がする
「なんか,王朝の概念にいきなりなじんでますね」
君のおかげだよ
「うわぁ……ま,ともかく,禹は舜の命を受けて天下中を回り,体をボロボロにしながら洪水対策を行うんですけど,そのときの部下の益(えき)にちゃんと帝位を譲ってるんです。禹が崩御してから,益は帝位を禹の子どもの啓(けい)に譲り,天下の人々も益より啓を支持したから,結果的に啓が帝位を世襲して夏王朝を開いちゃっただけなんです」
へえ……ちゃんと禅譲してたんだ。で,禹のどこがかっこいいの?
「ボロボロになったところ。あと,お父さんから生まれたところ」
お父さんから?
「そうなんです。禹のお父さんの鯀(こん)は,帝舜から洪水を止めるよう命を受けたんですけど,そのとき神さまから“限りなく増え続ける魔法の土”を盗んで堤防を作ったんです。でも,それでも洪水は止められず,そのうえ怒った神さまに石にされちゃうんです。三年後,誰かがなぜか石化した鯀の腹を刀で開いてみたら,中から赤ちゃんの禹が出てきたんです」
刀で? 石を? というか,なんでだろ
「不思議ですよね! ちなみに,禹があるとき熊に変化して,それを見て奥さんが逃げて石になっちゃうんです。禹が『オレの子を返せ!』って追いかけながら叫ぶと,奥さんの北側が開いて,中から息子の啓が出てきたそうです。親子二代で石から生まれるって,素敵ですよね」
いや,熊になって石になって啓が出てきてって,情報量が多すぎてついてけない
(参考:張光直著『古代中国社会――美術・神話・祭祀――』東方書店)


 ちなみに,堯・舜・禹は伝説の聖天子です。

 「五帝」のひとり(ぎょう)が帝位を息子に世襲させず,親孝行で有名だった(しゅん)に譲ったことを「禅譲(ぜんじょう)」と呼びます。舜も帝位を息子に世襲させず,治水に功績のあったに禅譲しました。禅譲は,天下万民の利益だけを考えた無私の徳行であり,堯・舜の名前を不朽のものにしました(誰だって財産を自分の息子に残したいもの。それをしなかった堯・舜はすごい! というわけです)。

 でも,禹は帝位を息子に世襲させて王朝を開いてしまったので,この点を後世に非難されることになります。『史記』の記述に従えば,ただの難癖ですよね。

(つづく)

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2016年4月27日水曜日

世界史全般/古代

STEP 3             

 大河と文明 

 メソポタミア文明,エジプト文明,インダス文明,中国文明。有名どころの文明はどれもこれも大河のそばに発展しています。

  • メソポタミア文明:ティグリス川・ユーフラテス川
  • エジプト文明:ナイル川
  • インダス文明:インダス川
  • 中国文明:黄河・長江

「メソポタミア」に至ってはそもそも「二つの川の間」という意味で,ティグリス川とユーフラテス川の間にあったと名乗ってます(「ティグリス・ユーフラテス川」という一本の大河ではありません)。“名は体を表す”です。

 じゃあ,なぜ文明は大河のそばに発展したのでしょう?

 答えは「灌漑農業をするのに大量の水を必要とするから」です。

これじゃ,文明は生まれない

 川から水を引かず,雨水に頼る農法を「天水農法」「乾地農法」といいます。作物を育てるうえで必須の水は天頼み。雨が降らなければアウトですね。それじゃあ,作物の生産量は安定しません。数千人・数万人単位の人間は養えないわけです。

 一方,川から水を引く農法を「灌漑農業」といいます。水を安定供給できますから,作物の生産量は安定し(十分な農業生産力),数千人でも数万人でも養えます。そうなれば,さまざまな地域からそこに人が集まるようになるので,巨大な都市が生まれます。

川があれば,いける


 
 数千人・数万人が暮らす都市が生まれれば,それだけの人を束ねるリーダーが必要になります。それに,もともと住んでいる人とあとから来た人の間に格差も生まれることでしょう。こうして,支配者のグループ(たぶん少数)と被支配者(残り全部)が生まれるわけです。権力の誕生ですね。

砂漠にピラミッドだって生まれる

 ここまで来たら,人の流入とともに技術も知識も集まるので,高度な冶金術や完成度の高い文字体系が生まれるのも時間の問題です。

文明の条件は,
 
 ①都市(城壁を備えたものがベスト)
 ②文字体系
 ③冶金術(青銅器や鉄器)
 ④権力(巨大な神殿や宮殿)
 ⑤農業生産力(灌漑農業)

というわけで,大河のそばに文明が発展するわけです。


(つづく)

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中国史/古代/新石器文化

STEP 3             

 土器の起源は? 

なあ,シーナ,彩陶って西アジアの影響を受けてるって言うけど,製陶技術ってユーラシア大陸の端から端まで伝わるものなの?
「技術は伝わりますよ。戦車や鉄器の製造技術も西アジアが起源で,中国まで伝わったとも言われてるんです」


(写真はイメージです)


そうなんだ。西アジアの製陶技術が中国まで伝わってもおかしくないんだ
「そうなんです。でも,せんぱい。土器の起源については,過去の説が覆ってるみたいです。ちょっと,これ読んでください」

「考古学者たちが発掘したもっとも古い時代の土器は中国の湖南省にある玉蟾岩遺跡の洞窟から出土し,今から約1万8000年前のものとされている。この洞窟は後期旧石器時代(4万-1万年前)の後半にハンターの野営地として使われた。2009年に考古学者がふたつの大型土器の破片を発見し,これは深いゴブレット形の器で,付随して石の道具,開放型の炉の炭と灰,動物の骨があったことから,おそらく旧石器時代の酢豚に相当するもの,いわば酢マンモスを調理するのに使われたと考えられる。世界最古の土器は日本の縄文時代(1万6000-2300年前)のものだと主張する説もある。おそらく,ほかの多くの人類の発明と同様,土器作りもいくつかの地域で独立して始まったのだろう。しかし,最初の土器が東アジアで生まれたのだとすれば,そこで世界最高級の陶器や磁器が生産されるようになったのはなるほどうなずけることである」
(エリック・シャリーン著『世界史を変えた50の鉱物』原書房)

「むしろ,東アジアの製陶技術が西アジアに伝わったらしいです。でも,世界最古の土器が日本の縄文式土器だって,胸ときめく説ですよね」
あのさ,土器って新石器時代に生まれるんじゃないの? 農耕が始まって,穀物とかを煮炊きするために土器を作ったって理解してたんだけど
「せんぱい,縄文式土器って知ってます?」
もちろん。小学校のとき,作ったし
「縄文時代って,狩猟採集文化? それとも農耕牧畜文化?」
バカにしてるの? 縄文時代が狩猟採集漁労の時代で,農耕牧畜が始まったのが弥生時代でしょ
「じゃあ,農耕が始まる前に土器があったって知ってるじゃないですか。頭に何か詰まってます?」
……
「それから,これも見てください。東アジアの土器の製法が9000年ほどかけてヨーロッパに伝わったらしいです」

「定住傾向が強まると,その土地にないものは交易によって入手するしかなくなる。交換されたもののなかには,食糧やその種子などの資源ばかりか,さまざまな情報を含んでいた。たとえば土器やその製法は,1万6000年ほど前に東アジアの一角で発明されたものだが,これは7000年ほど前にはシベリア南部を通って欧州にまでたどりついている。土器は,縄文時代の草創期には日本列島の北部にも到達しているから,人びとはすでにこの時代から,おそらく頻繁に海を渡っていたことになる」
(佐藤洋一郎著『食の人類史』中公新書)





講義で中国文明やメソポタミア文明あたりの歴史を扱うときには必読の書。中国での「小麦」の位置づけとか,この本ではじめて知りました。確かに黄河文明はアワ・キビの雑穀文化で,小麦文化とは呼ばないんですけど,どういう経緯で小麦が入ってきて,どう中国の人にとらえられていたのかを知りました。


(つづく)

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2016年4月26日火曜日

中国史/古代/夏・殷・周

STEP 1            

  1. 実在が確認できる最古の王朝は殷王朝。 
  2. 殷王朝は「占い」によって人々を支配した。 
  3. 周王朝は「封建制」によって人々を支配した。 

STEP 2            
 
 歴史書『史記』によれば,始皇帝が中国を統一して「帝国」を建設する前に,夏・殷・周という3つの王朝がありました。

  • 夏:前2070〜前1800/伝説の王朝
  • 殷:前1600〜前1046/実在の確認できる王朝
  • 周:前1046〜前256

 夏 

」は禹を始祖とする王朝です。
『史記』を信じれば,「中国史上初の王朝」になります。しかし,その実在を裏づける考古学的証拠はなく,教科書では「伝説の王朝」と位置づけられています。大型の宮殿遺跡で知られる二里頭遺跡が「夏の王都のあとではないか」と言われていますが,万人が認めているわけではありません。現在,実在が確認できる最古の王朝は「殷」です。


 殷 

」は湯王を始祖とする王朝です。
 殷の実在を裏づけたのは,豊富な「甲骨文字」資料です。
 甲骨文字とは,亀の腹甲(おなか側の甲羅)や牛の肩甲骨などに刻まれたもので,内容は占いです。まず甲骨に円形のくぼみをうがち,その片側にアーモンド形のみぞを彫ります。そのみぞに占い師が焼けた木片や金属片を押しつけると,「ぼくっ」という音とともにひび割れが生じます。そのひび割れを見て吉凶を判断するのが殷王の仕事です。ちなみに,このひび割れと音をもとにした象形文字が「卜(ぼく)」です。最後に,占いの日付,占い師の名前,占いの内容,王の吉凶判断,占いの結果を,甲骨に彫り込んで記録しました。占いの内容は,祖先祭祀,戦争,田猟,収穫状況,天気,疾病など,ありとあらゆる方面にわたっていて,殷の王が何かにつけて神(鬼神)におうかがいを立てていたことがわかります(おかげで,殷王朝の実態を占いの記録からかなり復元できるわけですけど)。そうした宗教色の強い政治を神権政治と呼びます。

 殷は「邑制国家」と呼ばれます。とは,城壁で囲まれた都市や集落を意味し,中では氏族共同体が暮らしていました。氏族とは,共通の祖先を持つ集団です。とりあえず「○氏一族」と考えてよいです。殷は「大邑商」という巨大な都市国家と,それに従属する小さな邑〈=都市国家〉とで構成されていました。1つの国家というよりも,むしろ邑の連合体のようなものです。殷王は,周辺の邑に対して頻繁に「田猟」〈=軍事演習〉を行って軍事的に威圧するとともに,繰り返し祭祀を主催して「霊的威圧」を加えました。殷は青銅器の鋳造技術と文字を独占していました。他の邑の氏族は青銅器も作れなかったし,文字の読み書きもできなかったのです。祭祀をするには青銅製の祭器も文字も必要ですから,殷だけが祭祀を実施できました。殷に逆らう=神に逆らうことを意味するので,誰も歯向かえませんでした。


 周 

」は武王を始祖とする王朝です。
『史記』によれば,武王が殷王朝最後の王「紂王」を破り,殷王朝を滅ぼして周王朝を開きました。中国では,王朝交代のことを「革命」と呼びます。西洋史の「革命revolution」とはだいぶ意味が異なります。代々王位を世襲してきた殷の家系は「子」姓で,新しく王になる周の家系は「姫」姓でした。革命によって王朝が子姓から姫姓に交代するので,これを「易姓革命」と呼びます。「易姓」とは,「姓を易(か)へる」という意味です。
 周の国家体制は,殷とはまったく異なります。彼らは「封建制」と呼ばれる精緻な支配システムを作り上げました。

  • 殷:邑制国家/都・殷墟(大邑商)
  • 周:封建制 /都・鎬京

 封建制とは,「周王が一族・功臣に封土を与えて諸侯とし,諸侯はその見返りに軍事・貢納の義務を負う」というものです。王が息子や兄弟に新しく邑を与えて独立させるので,単に分家と考えてよいです。周王や諸侯の一族のことを「宗族」と呼び,そのうち王族など本家の宗族を「大宗」,諸侯など分家の宗族を「小宗」と呼びます。諸侯はさらに一族・功臣に封土を与えて「卿・大夫」とし,卿・大夫も一族・功臣に封土を与えて「士」としました。こうして分家を繰り返し,枝分かれした宗族が数多く生まれるとともに,周王→諸侯→卿・大夫→士という階層的な身分秩序が生まれました。なお宗族の構成員は「宗法」と呼ばれる一族の掟を守らなければならず,これが諸侯や卿・大夫・士に対して法律のような働きをしました。


2016年4月25日月曜日

中国史/古代/新石器文化

STEP 3              

 そもそも文明って何? 

中国文明って世界最古の文明なんだな
「何を言ってるんですか,せんぱい。世界最古の文明はメソポタミア文明ですよ」
だって,黄河文明前半の仰韶文化は前5000年〜前3000年って書いてあるじゃん。メソポタミア文明は前3000年の文明だろ。2000年も黄河文明が先行してることになるんじゃね
「……」
……あの,その目,やめてくれる?
「せんぱい,『文明』の意味,わかってます?」
もちろん!
「じゃあ,説明してください」
えっと,すごく便利……とか
「……」
……あの,その目,やめてくれる?
「文明って言葉は『野蛮』との対比で考えると,わかりやすいです。文明を生み出す前の人間はクロマニョン人ですよね。中国で言えば,周口店上洞人です。彼らは,多くても数百人規模の集団で,槍や弓矢を手にマンモスとかの大型ほ乳類を狩ったり,栗を拾ったり,魚を釣ったり,貝を拾ったりしてるわけです」

(写真はイメージです)

それが『野蛮』な感じ?
「そうです」
じゃあ,『文明』は?
「まず都市が必要です。数千人とか数万人が暮らせるような。もちろん,その人口を支えられるだけの農業生産力灌漑農業が始まってると,まさに文明な感じです。それから,もっと高度な技術が欲しいので,冶金術――青銅器や鉄器などの金属器を作る技術も欲しいです」
野蛮人どもより進んでる感じだね
「……。それに文字。数万人の人口を束ねる権力。それだけそろってると,文明と呼んでいいと思います」
……? 黄河文明って,文字も冶金術も都市もないよな?
「はい。そもそも『新石器文化』ってくくりですから,まだ石器時代です」
じゃあ,まだ『文明』じゃないじゃん。中国文明って呼んでるくせに
「フライングな感じですね。中国が青銅器時代を迎えるのは殷の時代ですし,完成した文字体系を持つのも殷の時代です」
じゃあ,文明と呼べるのは……
「そうです。殷の時代なんです。前1600年ころで,インダス文明よりも新しいです」


 文明の条件  

 ①都市(城壁を備えたものがベスト)
 ②文字体系
 ③冶金術(青銅器や鉄器)
 ④権力(巨大な神殿や宮殿)
 ⑤農業生産力(灌漑農法)


(つづく)

中国史/古代/新石器文化

STEP 1                

  1. 中国には黄河文明と長江文明の2つも文明があった。
  2. 伝説の夏王朝の実在を裏づける遺跡が発見された。
  3. 四川省には三星堆文化というユニークな文化もあった。

STEP 2                

 黄河文明と長江文明 
 
 中国では黄河文明と長江文明という2つの文明が発達しました。1つの国に2つも文明があるなんて,ちょっとうらやましいです。黄河流域に生まれた黄河文明ではキビ・アワなどの雑穀を食べ,長江流域に生まれた長江文明ではコメを食べていました。それぞれ性格を異にする別個の文明です。

  • 黄河文明:華北/黄河流域(華北)/キビ・アワ 
  • 長江文明:華中/長江流域(華中)/コメ(水稲耕作)


 仰韶文化と竜山文化 

 黄河文明では,前期(前5000〜前3000年ころ)に彩文土器彩陶)を特色とする仰韶文化,後期(前2500〜前2000年ころ)に黒陶灰陶を特色とする竜山文化が繁栄しました。

  • 仰韶文化:前5000〜/黄河中流域(河南省)/彩文土器(彩陶)
  • 竜山文化:前2500〜/黄河下流域(山東省)/黒陶・灰陶

 彩陶は赤地の土器に,黒い文様(彩文)が描かれているものです。モチーフは魚,花,葉など。壷とか鉢とか単純な形が多いです。一方,黒陶は黒い光沢を持つ土器で,文様はありませんが,複雑な形をしています。有名なのは,(蒸し器)や(煮炊き器)に代表される三足土器で,土器の底に三本の足が付いています(見た目はすごく不安定)。このころには回転台(ろくろ)を使って土器を製作していて,中には厚さ0.5mmという極薄の「卵殻陶」も存在します。彩陶よりも技術レベルが相当高い感じです。

 
 夏王朝と二里頭文化 

 歴史書『史記』によれば,竜山文化末期の前2000年ころに「」と呼ばれる王朝があったとされています。しかしその実在を裏づける考古学的証拠はなく,伝説の王朝とされてきました。ところが,竜山文化に続く二里頭文化(前2100〜前1800年ころ),二里岡文化(前1600〜前1400年ころ)が見つかり,前者の二里頭文化が「夏」王朝のものだと考えられています。


  • 夏:前2070〜前1800/伝説の王朝/二里頭文化
  • 殷:前1600〜前1046/実在の確認できる王朝/二里岡文化
  • 周:前1046〜前256

  • (「三代」と総称される古代王朝。二里頭文化=「夏」,二里岡文化=「殷」 初期と考えられている。「三代」のあとが「秦」)

 といっても,まとまった文字資料は出土していないので,二里頭文化が本当に夏王朝のものなのかは断定できず,教科書的にはまだ夏王朝は伝説の王朝のままです。


 三星堆文化 

縦目仮面。目がびょーん。
 黄河文明・長江文明のほかに,四川省で三星堆文化も見つかりました。前1600年ころ,殷王朝初期と同時代の文化で,他では見られないユニークな青銅器や黄金製品を特徴とします。例えば,瞳の部分が縦に飛び出した「縦目仮面」や高さ4mもある「神樹」が有名です。


 三星堆遺跡は,殷初期の遺跡(二里岡遺跡)と比較しても遜色のない大規模なもので,「殷」と同規模の強力な王権が四川省にあったことを示しています。青銅鋳造,玉器製造,黄金加工などで卓越した技術を誇り,また独自の宗教体系も備えていることから,黄河文明・長江文明と並ぶ中国第三の文明とも位置づけられています。
(参考:徐朝龍著『三星堆・中国古代文明の謎――史実としての『山海経』』あじあブックス)