2016年6月12日日曜日

中国史/古代/夏・殷・周

 封建制とは 



〈封建制度は双務的契約関係〉
それでは,封建制の続きです
「せんせー,ヨーロッパの封建制度と中国の封建制はどこが違うんですか?」
簡単に言えば,君主と臣下の関係が契約関係か血縁関係かです。ヨーロッパの封建制度の場合は『双務的契約関係』と説明されたりします。『契約』の意味はわかりますか?
「けいやく?」
「約束みたいなもの?」
うんうん,素直でいいですね
「2人以上の当事者が合意することによって成立する法律行為のことですよね」
……う,かわいくない。でも,まあ,そのとおりです。例えば,君主(雇う側,封建領主とか)が年収1000ポンドで雇いたいと提案し,臣下(雇われる側,騎士とか)がそれでよいと合意したら契約成立です。君主には約束どおり年収1000ポンド相当の封土を与える義務がありますし,騎士にはそれに見合った働きをする義務があります。戦争が起きたら,その君主側に立って参加しなければならないわけです
「せんせー,その騎士がチキン野郎で,いざ戦争になったらビビって逃げ出した場合はどうなるんですか?」
「そんなチキン野郎,戦場に来たって役に立たねーから,来なくてもよくね?」
「揚げて食べちゃえばいいよね」
「ミンチにして,つくねにした方がいいよ」
「ぶつ切りにして,カレーの具にすれ……」
はい,ストップ! 豚バラ肉以外のカレーなんて考えられません。冒瀆です。ビビって逃げ出したら,その騎士は契約で定められた義務を放棄したわけですから,契約は無効です。封土を取り上げられることになります。ミンチにしたりぶつ切りにしたりする必要はありません。逆に,君主が約束の封土を与えなかったら,今度は君主側が契約を破ったことになるので,騎士に従軍義務はありませんし,その君主のもとを去って別のもっとちゃんとした君主に仕えでもいいです
「敵の君主とかでもいいんですか? 昇給に納得できないから,あえてライバル社に移籍するような」
いいこと,言いますね。もちろんいいですよ


〈封建制は要するに分家〉
一方,中国の封建制では,王はそもそも自分と同じ宗族の一員を封建します。息子とか叔父とか従兄弟とかです
「『一族・功臣を諸侯にした』んじゃないんですか?」
教科書にはそう書いてありますね。確かに功臣も封建してるんです。例えば,周の文王・武王に仕えて殷周革命を成功させたのが,弁当売りの太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)です。釣りをしているところを文王にスカウトされました
「なんかすごく役に立たなさそう……」
何を言ってるんです。大活躍しましたよ。革命後,この太公望を山東半島の営丘の地に封建しました。それが戦国の七雄にも名前を連ねる『斉』です。でも,『一族・功臣を諸侯にした』と理解すると,血縁関係=宗族関係を基盤としたという西周封建制の特長があいまいになってしまうんです
「せんせー,そもそもどうして諸侯を置いたんですか? はじめから官僚を派遣して,中央集権体制で統治すればよかったのに」
いい質問しますね。でも,それは後知恵の意見です。彼らは初めて『広大な領域を支配する』という難事業に挑んだわけです。今なら国家統治のノウハウが蓄積されていますから,彼らよりも優れたアイデアを出せますけど,当時は,まあ,難しいですよね。彼らも,どうしたら広大な地域を治められるのか,探り探り進めていたはずです。ちなみに,西周が諸侯を置いたのは,鎮圧に3年かかった大規模な反乱がきっかけです。ところで,殷を滅ぼしたのはだれか覚えていますか?
「はい!」
じゃあ,そこの坊主
「せんせー,これ,クルーカットです。モデルはアメリカの海兵隊です」
じゃあ,そこの海兵(マリーン),答えは? センパーファイ!(常に忠誠を)
「周の文王(ぶんおう)です,軍曹。センパーファイ!」
惜しい。実際に殷を滅ぼしたのはその子の武王(ぶおう)の方です。お父さんの文王はその仁徳で周の声望を高めて,殷周革命の下地をつくった人ですね。あと,易(えき)の六十四卦をつくったりしています。
「易? 易とはなんですか,軍曹」
まだつづけるんですね……。占いの一種です。『当たるも当たらぬも八卦』のやつ。八卦に八卦をかけて六十四卦です。さて,武王は殷の紂王を牧野で破ったあと,早々に亡くなります。あとを継いだのが幼い成王と周公旦(しゅうこうたん)です。周公旦は,周の基礎を築いた人で,のちに孔子のアイドルになります。孔子は夢に周公旦が出て来なくなっただけで,ずいぶんと落ち込んでいます

「で,その人が封建制をはじめたんですか?」
そのとおりです! 素晴らしい。武王の死後,周公旦が幼い成王に代わって実権を握ると,武王を中心にまとまっていた周の陣営に亀裂が入り,その隙を突いて殷の残存勢力が大規模な反乱を起こしました。周公旦はこれを何とか鎮圧したのち,
  1. 紂王の庶子の微子(びし)を『宋』の地に封建して殷の祭祀を引き継がせ,
  2. 武王の末弟の康叔(こうしゅく)を殷の中心地だった『衛』の地に封建して殷の民を統治させ,
  3. 殷の民のうち最も反抗的なものを現在の洛陽の地に強制移住させて洛邑(らくゆう)を建設しました。
これが封建の初例です。もと殷の民を監視して,反乱を起こさせないという意図で始まったわけです。なお洛邑は西周第二の都となります。第一の都が現在の西安の地にほど近い鎬京(こうけい)で,第二の都が洛邑(らくゆう)です

「せんせー,『封建する』って,具体的にどうするんですか?」
いい質問しますね。周王は宗族の1人,自分の弟や叔父や従兄弟を選んで諸侯とし,封土として与えた土地に送り出します。このとき,その土地にはまだ邑=都市はできていません。送り出された諸侯が開墾して,そこに邑を建設します。もちろん1人では何もできないので,周王は支配下の民を一族単位でいくつか一緒に送り出します。例えば,康叔を封建するときにはもと殷民の7つの氏族(陶氏・施氏・繁氏・錡氏・樊氏・饑氏・終葵氏)を分け与えています。封建とは,移民でもあったわけです。封土に到着した諸侯は,率いていてきた民とともに,祖先を祭る宗廟(そうびょう)と,土地神と穀物の神を祭る社稷(しゃしょく)を建て,邑の建設予定地の四方に版築の技法で,つまり土を盛って,境界線を引きます。この“土を盛って邑の境界を定める”ことを『封(つちもり)す』と呼びます。このあと,諸侯は邑を建設して,自分の国とするわけです。というわけで,『封建する』とは,(つちもり)させて,諸侯国をてさせることです
「一族を送り出して,新しい国をつくらせたわけですね」
そのとおりです。要するに,分家ですね。周王にとって信頼できるのは血のつながった一族ですから,次々と分家して一族の国を隅々にまで作ることで,天下を統治しようと考えたわけです。諸侯国を『藩』と呼びますが,これは周王室を守る垣根=藩屏(はんぺい)という意味です


〈分家の分家,分家の分家の分家が身分秩序をつくる〉
 周王室は『姫(き)』を姓とします。周王の跡継ぎは長男であり,長男と次男や三男との間には優劣がつけられました。これを『長幼の序』と呼びます。もちろん正室の産んだ嫡子(ちゃくし)と側室の産んだ庶子(しょし)との間にも厳密な差が設けられました。こうした細かな決まりを宗法(そうほう)と呼びます。僕らにとってはなんとなく常識に感じますけど,封建制を維持するためにつくられた道徳だったわけです。

  1. 周王の地位は嫡子かつ長男(長嫡子)が継承し,宗廟と社稷を引き継いで祭祀を続けます。
  2. 周王の実弟(次男以降の嫡子)と異母兄弟(庶子)は封土(公邑)を与えられて諸侯となります。要するに,分家です。このとき,周王室=本家を『大宗』,諸侯=分家を『小宗』と呼びます。
  3. 諸侯の地位はその長嫡子が継承し,宗廟と社稷を引き継いで祭祀を続けます。また封邑の名前を氏としました。例えば,衛に封建された康叔の子孫は『衛』を氏とし,魯に封建された伯禽(はっきん)の子孫は『魯』を氏としました。諸侯には『姫』姓のほか,『衛』氏や『魯』氏といったもう1つのファミリーネームがあったわけです。
  4. 諸侯の実弟と異母兄弟は封土(采邑)を与えられて卿・大夫になりました。これも分家です。このときは諸侯=本家で大宗,卿・大夫=分家で小宗です。この卿・大夫も,はじめは『公子』(諸侯の子),『公孫』(諸侯の孫)と名乗りますが,その後は邑の名前を氏としました。
  5. 卿・大夫の地位は嫡子の長男が継承し,その実弟と異母兄弟は士になります。
  6. 士の地位は嫡子の長男が継承しますが,残りはすべて庶人=一般人になります。なお士までが貴族階級です。上級貴族が卿・大夫,下級貴族が士です。
 このように,分家を繰り返して,周王→諸侯→卿・大夫→士という階層型の社会構造をつくりました。宗法では,大宗(=本家)は小宗(=分家)の上に位置づけられていたので,周王→諸侯→卿・大夫→士はそのままピラミッド型の身分秩序になりました。周王の方が諸侯よりも地位が上であり,諸侯の方が卿・大夫よりも地位が上……というように。
 中国の封建制が血縁関係=宗族関係を基礎にする,と説明されるのはそのためです。西洋の封建制度とはずいぶんと違いますよね。


〈異姓諸侯をどうするか〉
 さて,同姓諸侯ばかりで,すべて『姫』姓一族なら問題ないわけですが,実際は功臣も諸侯にしましたから,この本家・分家関係=宗法が通用しない異姓諸侯もいるわけです。それでは,彼らをどうすればよいのか。
 周王は彼らと姻戚関係を結ぶことで,この問題をクリアしようとしました。娘と異姓諸侯を結婚させることで,彼らを『娘婿』にして,『義理の父』としてその上に立ったわけです。ちなみに,王室から『姫』姓の女性が続々と異姓諸侯のもとに送り込まれたので,いつしか王女のことを『姫(ひめ)』と呼ぶようになりました。

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