2016年5月25日水曜日

中国史/古代/秦

STEP 2            


 始皇帝 

 前221年,秦王政は最後の七雄「」を滅ぼして,天下統一を成し遂げます。七雄最初の亡国となった「韓」を滅ぼしてから,たった9年後のことでした。

 西周時代の初め,諸侯は800も割拠していました。その後,春秋時代に入るころには200まで数を減らし,戦国時代には7に絞られていました。いわゆる「戦国の七雄」です。その七雄の中で最後まで生き残ったのが秦でした。800チームも参加した長い予選を経て,戦国時代にビッグ・セブンによる決勝リーグが行われ,最後に秦が優勝して,800年も続いた大会が終わった感じです。

 彼は「王」を越える称号として「皇帝」を採用します。「三皇」の「皇」と「五帝」の「帝」を合わせたものです。彼は「○王」や「○帝」のような諡(おくりな)を嫌い,死後は単に「始皇帝」〈=最初の皇帝〉と称することにしました。諡とは,死後その生前の功業を讃えて贈る尊号であり,場合によっては「バカ王」とか「親殺し帝」と名づけられかねないので,それを拒否したわけです。勝手にあだなをつけられてたまるか,といったところ。彼は「後世は二世三世と数えて万世に至り、無窮に伝えることとす」としました。次の皇帝は自動的に「二世皇帝」,その次は「三世皇帝」です。なお「万世」まで伝えたいという彼の願いも虚しく、秦は3代15年で滅びました

始皇帝


 李斯  

 呂不韋失脚後,宰相となって始皇帝を支えたのが李斯(りし)です。商鞅と同じく法家の1人に数えられます。彼は,法家思想を集大成した韓非(かんぴ)とともに,儒家の荀子(じゅんし)に師事したこともあるという異色の経歴の持ち主です(儒家と法家なんて,水と油なのに)。

 この李斯を中心に,秦は中国全土を中央集権体制で統治する難事業に挑みました。

  1. 丞相(行政),大尉(軍事),御史大夫(監察)の設置。
  2. 郡県制:中国全土に拡大。全36郡(のち48郡まで拡大)。
  3. 馳道(ちどう)・直道(ちょくどう):道路網の整備および車軌の統一。
  4. 度量衡の統一
  5. 半両銭:貨幣の統一。方孔円銭。「半両」は重さで,約8g。
  6. 篆書(てんしょ):文字の統一。青銅器や石碑の銘文に使うような装飾的で非実用的な字体「大篆」を簡素化したもの。いわゆる「小篆」。
  7. 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ):思想統制。秦以外の歴史書,および,医薬・占い・農業技術などの実用書以外の書物を焼き払い,儒家を含む460名の学者を穴埋めに。
●丞相
 丞相・大尉・御史大夫の設置は中国版の三権分立です。宰相に権力が集中していた状況を改め,行政を丞相に,軍事を大尉に担当させて権力を分散し,そのうえ御史大夫にそれぞれをチェックさせました。皇帝を脅かす存在をなくすためです。

●郡県制
 郡県制は,商鞅の県制を全国に拡大したもので,行政単位として「郡」「県」を設置し,そこに「郡守」「県令」と呼ばれる官僚を派遣して,皇帝に代わって統治させました。日本だと,宮城登米といった形で,県の下に郡がありますが,中国の場合は南陽新野といった具合で,郡の下に県があります。「郡(ぐん)」は「群(ぐん)」と同じで,「県を集めたもの」=「県の群れ」という意味だそうです(あるいは,「県」は「懸」と同じで,「郡に懸けるもの」を意味するという説もあります。ちなみに「県」の旧字体「縣」は「斬りおとした首を木にかけたところ」の象形文字とのこと)。
封建制では,諸侯や卿・大夫に邑を与えてしまうので,統治も任せっきりです(当たり前ですね。封邑は王が諸侯にあげたものなので。王はもはや手出しできないわけです)。郡県制では,郡・県を官僚に与えるわけではありません。あくまで皇帝のものです。官僚は皇帝の手足となり,皇帝の指示通りに,その郡・県を治めます。問題はどのように指示を与えるかです。いまと違って電話もネットもありませんから,指示するにも早馬で2週間かかったりしました。というわけで,秦は膨大な量のマニュアルを作成して,そのマニュアル通りに統治させることにしました。このマニュアルを「」と呼んでいます。

●馳道・直道
 馳道は,まさに「馳せる道」で,秦の都咸陽(かんよう)と旧六国(斉・楚・燕・韓・魏・趙)を結ぶ幹線道路です。幅は「50歩」=約67.5m。三車線に分かれており,路面は地面よりも高く,版築の技法で突き固められていました。皇帝専用道路であり,横断することも禁じられていたとのこと。
 車軌は「車のわだち」で,戦国時代には各国はあえて車輪と車輪の幅を変えることで他国の馬車が自国内をスムーズに通行できないようにしていました。始皇帝はこのわだち〈=車軌〉の幅を統一することで,各国の道路を連結して道路網を整備しました。馳道を含め,道路網の総延長は12000kmに及んだそうです。
 また全国を網羅する道路網に加えて,直道も建設しました。首都咸陽(かんよう)から内モンゴルの太原郡(現在の包頭)まで,全長750km。幅30~50mで,側溝も路肩も備え,馳道と同じく版築の技法で突き固められていました(今でも直道は草木も生えていない状態で,その跡を容易に確認できます)。秦と敵対する遊牧民族匈奴(きょうど)の対策として,始皇帝が将軍蒙恬(もうてん)に命じ,10万人を動員して建設させました。これで,匈奴のいるところまで,スムーズに軍隊を送り込むことができます。建設に当たって「山を削り谷を埋めた」と『史記』にはありますが,これは誇張ではなく,勾配を最小限に抑え,可能な限り直線にするために,山を削り谷を埋めた跡が考古学的な調査でも確認できたそうです(『幻の道 直道』より)。

●度量衡の統一
 度量衡の統一は,商鞅がすでに行っていたものです。始皇帝は,この秦の度量衡を中国全土に拡大しました。確認しておくと,度量衡とは,「度」=長さ,「量」=体積(多さ),「衡」=質量(重さ)を指します。度量衡の統一とは,長さを測る「ものさし」,体積(多さ)を量る「ます」,重さを量る「はかり」の規格を統一することです。同じ「1升」でありながら,地域によって1.8リットルだったり2.0リットルだったりすれば,徴税にせよ何にせよ,混乱が起きます。そこで,始皇帝は標準器を作り,全国どこでも同じ長さの「ものさし」,同じ大きさの「ます」,同じ重さの分銅(はかりにのせるやつ)で計量できるようにしました。

●半両銭
 戦国時代には,刀銭,布銭,蟻鼻銭など,さまざまな青銅貨幣が流通しており,しかも国家が独占して鋳造しているわけでもなく,さまざまな民間業者が勝手に鋳造したりしていました。始皇帝はそこで貨幣鋳造権を国家で独占し,重さ半両(約8g),方孔円銭(円形で真ん中に四角い穴)の半両銭に貨幣を統一しました。戦国時代には,円孔円銭(円形で丸い穴)も発行したのに,方孔円銭に統一したのは,「天円地方」(天は丸く,地は方形)という中国の世界観にもとづいたからで,天下を治めているというメッセージがそこには込められているそうです。ちなみに,のち貨幣に鋳込まれる文字と言えば,元号になるのですが,半両銭には重さを表わす「半両」の文字が鋳込まれていました(そもそも元号自体がこのときにはありません)。

●篆書
 文字は,殷代の「甲骨文字」に始まり,西周の「金文」(青銅器に鋳込んだ文字),戦国時代の「大篆」を経て,より簡素化した「小篆」に統一されました。これを「篆書」と呼んでいます。でも,まだまだ装飾性が高く,煩雑で,非実用的でした。このころから「隷書(れいしょ)」が姿を現します。簡素で,実用的な文字です。やがて,この「隷書」から,僕たちにもおなじみの「楷書(かいしょ)」が生まれますが,それは後漢の話です。

甲骨文字(殷)→金文(周)→大篆(戦国)→小篆(秦)→隷書(秦から漢)→楷書(後漢)


●焚書坑儒
 始皇帝は,秦の記録以外の史書および医薬・占卜・農業技術書以外の書物を焼却し(焚書)、460名の学者を穴埋めにしました(坑儒)。
 前213年,儒家の淳于越(じゅんうえつ)という人物が,始皇帝に対して,今の郡県制を改め,昔の封建制に学び,始皇帝を支えるための諸侯王を置くべきだと主張しました。丞相の李斯は,これに反論します。戦乱の世をもたらした元凶は封建制だと。周の封建制には致命的な欠点があります。例えば,周王が自分の子を封じて諸侯にしたとします。当初は父である周王に感謝し,その恩に報いるために軍事や貢納の義務を喜んで果たします。しかし,周王と諸侯が死に,その子どもたちが封地を世襲すると,周王と諸侯の関係は「父と子」ではなく「伯父と甥」となります。両者の結びつきは弱くなり,御恩も遠い昔のこととなって感謝の気持ちも忘れがちになります。こうして,代替わりのたびに王と諸侯の関係は疎遠になり,御恩をますます忘れます。諸侯はもはや信頼できる臣下ではなく,単なる脅威になります。そんな脅威が800もあったので,結局,長い長いバトルロワイヤルが始まったわけです。李斯は淳于越に対して,「また戦乱をもたらす気か!」と反論しました。
 儒家の経典(詩経や書経)や諸子百家の書(墨子や老子)が民間にあれば,それらを持ち出して現体制を批判する連中(淳于越みたいな)がまた現れるかもしれない……そこで,李斯は焚書に踏み切り,「古を以て今を非(そし)る〈=昔のことを持ち出して現体制を非難する〉者は一族皆殺し」という厳しい法令を出しました。
 翌年,坑儒が行われます。坑儒とは,「儒家を穴埋めにする」という意味ですが,実際は妖言で人民を惑わした学者460人を穴埋めにしたのであって,儒家だけを弾圧したわけではありません。きっかけは詐欺事件でした。不老不死を心から求める始皇帝は,巨額の資金を費やして方士(神仙術の使い手)に不老不死の霊薬を探し求めさせていましたが,実は騙されていただけでした。これを知ってキレた始皇帝が,方士だけでなく学者も同類と見なして取り調べてみたところ,どいつもこいつもグダグダとわけのわからないのことを言って責任のなすりつけ合いをしているので,まとめて穴埋めにしたのです(十分にヒドい)。これを「坑儒」と呼び,あたかも始皇帝が儒家を目の敵にしたかのように事実を捻じ曲げたのは,後漢の儒家だそうです。

(つづく)

2 件のコメント:

  1. 忘れぬうちに…
    本の名前は9割取れるセンターです。

    とてもブログ見やすいです。
    次も楽しみにしています\(^o^)/

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  2. ありがとうございます! ちょっと忙しくて更新が滞りがちですけど,がんばります。あと,本の名前もありがとうございます。本屋で探してみます。

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