2016年6月13日月曜日

中国史/古代/秦

STEP 2            


 秦の滅亡 

 秦は15年で滅亡します。その原因は,①法家思想にもとづく厳格な政治,②民衆を苦しめた過酷な労役と対外戦争,にあったとされます。


 厳格な統治 

 法家思想は「信賞必罰」を旨とします。法律の運用を少しでも緩めると,「法律を破ってもかまわない」というムードが生まれてしまうからです。例えば,信号無視は立派な法律違反ですが,歩行者や自転車が信号無視を繰り返したところで警察は見逃してくれますから,みなさんもすっかり信号無視を犯罪とは思わなくなっていますよね。同じように,多少遅刻しても事情を説明すれば許してもらえるとか,大事な仕事でも体調が悪ければ休んでもOKとか,そういった甘いことをつづけていると,モラルハザードが起きて,だれも決まりごとを守ろうとはしなくなるわけです。
 秦は厳格な法運用を実施しました。統一後,旧六国(韓・魏・趙・斉・燕・楚)の民はあまりにも細かな法規定と厳しい罰則にうんざりします。


 過酷な労役と対外戦争 

 『史記』始皇本紀には「隠宮,徒刑七十余万人をして,乃ち分けて阿房宮を作らせ或いは驪山を作らしむ」とあります。「陰宮」は宮刑(性器切断刑)を受けた囚人,「徒刑」は労役刑を受けた囚人のことです。

●阿房宮
 秦の都は咸陽(かんよう)です。前350年に孝公が遷都して以来,ずっとここです。中心は渭水の北岸にあり,歴代秦王(始皇帝を含め8代144年)は,ここに宮殿を建設しつづけました。始皇帝も,六国を征服する過程で,国をひとつ征服するたび,その国の最も壮麗な宮殿を測量して,そのレプリカを咸陽につくらせました。そうした宮殿を「六国宮殿」と総称し,全部で145を数えました。1万を越える各国の美女がそこに集められていたそうです。
 阿房宮(あぼうきゅう)は,始皇帝が渭水の南岸に新たにつくらせた宮殿で,前212年に着工しました。『史記』によれば,「東西500歩(690m),南北50丈(115m),その上には1万人を座らせることができ,その下には5丈(11.5m)の旗を立てることができた」とのこと。渭水北岸の宮殿群と渡り廊下で結ばれていました。当時,民間では,「阿房,阿房,秦を滅ぼす」と盛んに歌われており(『述異記』),この阿房宮こそが民衆の反乱を招き,秦滅亡の原因になったとされています。

●驪山陵
 驪山陵(りざんりょう)は別名「始皇帝陵」。面積は56平方キロメートル。東京ディズニーランド約120個分です。約8000体の等身大陶製フィギュア=兵馬俑(へいばよう)で知られています。秦王に即位した翌年に造営を開始しました。
 兵馬俑は素焼きの人形です。約8000体もありながら,ひとりひとり異なる顔をしており,実際の兵士をモデルに作成されたと考えられています。顔にはエラの張り方や頬骨の高さなどに民族の特徴が出ており,秦軍が多種多様な出自の兵士によって編成されていたことがわかります。同時に,青銅製の武器も出土していますが,中にはクロムメッキ加工を施されたものもあり,埋められてから2000年以上経っているというのに,さびていなかったそうです(ちなみにクロムメッキ加工は耐摩耗性・耐食性に優れたメッキ加工で,1937年にドイツで発明されました。なぜ,この時代にあったのかはなぞ)。
 兵士をかたどった兵馬俑ばかりが有名ですが,文官をかたどった文官俑(ぶんかんよう)や芸人をかたどった百戯俑(ひゃくぎよう)なども発掘されています。そもそも,こうした俑(素焼きの人形)や青銅製の鶴や楽器などを埋めた穴を陪葬坑(ばいそうこう)と呼びます。全部で約200もあり,兵馬俑坑はそのうちの1つに過ぎません。そのほか,銅車馬坑,珍獣異獣坑,馬厩坑,動物坑,石鎧坑,百戯俑坑,文官俑坑,水禽坑(水禽は水鳥という意味)などがあります。いずれも始皇帝が死後の世界で必要とするものを俑や青銅でつくって埋めたと考えられています。動物率が妙に高いあたり,始皇帝は動物好きだったのかもと思わせます。
 肝心の始皇帝の墓は,場所はわかっていますが,まだ発掘されていません。始皇帝の遺体が眠る墳丘(日本の古墳と同じように中国の墓も土を盛って丘状にします)は,二重の城壁に囲まれていて,墳丘の地下30メートルの部分には巨大な地下宮殿が横たわっています。『史記』によれば,水銀で天下の河川(黄河や長江など),海を再現し,墓室の天井には天文を,床には地理を描いたそうです。中華世界を地下に再現したわけです。実際,最新技術で調査した結果,地下に広大な空間があることもわかっていますし,地表面の水銀量を測ったところ高い数値が出ているので,ある程度『史記』の記述どおりの墓室が発掘されるのではないかと期待されています。

●万里の長城
 万里の長城(ばんりのちょうじょう)は東西約5000キロ。モンゴル高原の遊牧民族「匈奴(きょうど)」などが,秦に侵入して来ないように建設したもの。そのころ,匈奴は頭曼単于(とうまんぜんう)という英主を得て,強大な勢力に成長していました。
 前215年,燕人盧生(ろせい)という人物が「秦を滅ぼすものは胡なり」という預言書を始皇帝に献上します。胡とは,北方の異民族を意味し,ここでは匈奴を指します。そこで,始皇帝はさっそく将軍の蒙恬(もうてん)に命じ,30万の軍を与えて匈奴を討たせ,オルドス地方から彼らを追放しました。その後,前213年までに東の端から西の端まで万里の長城を建設し,匈奴が南下できないようにしました。黄土が豊富な地域では版築で,そうではない地域では平石を積み重ねて高さ4m,幅4mの長城を築きました。なお,万里の長城は秦が単独で建設したわけではなく,もともと北方にあった旧六国の趙や燕が築いていたものを修築してつなげたものです。

●対外戦争
 前215年,蒙恬が30万の兵を率いて匈奴を討伐し,その翌年,屠睢(とすい)が50万の兵を率いて華南の百越(ひゃくえつ)を討伐しに向かいました。百越は浙江省・福建省など東シナ海沿いに暮らす海洋民族で,春秋時代に「越」を建国したことでも知られています。始皇帝は百越を討伐するために全長30kmの運河霊渠(れいきょ)を掘削して,湘水と離水という川をつなぎ,咸陽から水路で百越のいる華南まで行けるようにしました。屠睢は船に50万の兵士を乗せて,川伝いに華南に到達しましたが,そこで大敗。その後,趙侘(ちょうた)が指揮をとり,百越を征服して,南海(なんかい),象(しょう),桂林(けいりん)の3郡を設置しました。こうして秦の領域はベトナムのハノイにまで及ぶことになりました。


 厳格な法治,重い労役,度重なる外征に民衆の不満は蓄積し,始皇帝の死後,ただちに陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)と呼ばれる農民反乱が起きます。これが秦滅亡の第一歩となりました。


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