2020年1月16日木曜日

中国史/古代/漢

STEP 1            
  1. 秦滅亡後,天下統一をしたのは前漢の劉邦。  
  2. 前漢は郡国制と呼ばれる体制で,中国全土を支配した。  
  3. 武帝の時代に中央集権体制は完成した。  

STEP 2            

 陳勝・呉広の乱 
 
秦が滅ぶきっかけとなったのが,中国史上初の農民反乱陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)」です。陳勝も呉広も人名です。

陳勝(ちんしょう)は,雇われて他人の土地を耕す仕事をしており,社会の中で最も貧しい層に属していました。ある日,かたわらの仕事仲間に「オレは富貴になっても,おまえのことを忘れないからな」と言ったところ,「おまえ,雇われ労働者のくせに,何を言ってるんだ」と小馬鹿にされました。そのとき,陳勝が言ったのが「燕雀(えんじゃく)いずくんそ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」です。燕雀〈=ツバメやスズメ〉のようなちっぽけな鳥には,鴻鵠〈=オオトリやハクチョウ〉のような雄飛する巨鳥の志はわかるもんか,という意味です。


前209年,始皇帝が病死し,二世皇帝が即位してから一年後。北辺の守備のために兵士として徴発された900人の群衆の中に,陳勝と呉広がいました。秦の北辺は遊牧騎馬民族匈奴(きょうど)の脅威にさらされており,あちこちで徴兵が行われては最前線に配備されていました。陳勝・呉広を含む900人は,決められた集合場所に向かっていましたが,ある日,大雨で動けなくなり,期日内に到着することが不可能になりました。当時の軍法では,期日内に集合場所に現れなければ斬首と決められていたので,もう絶体絶命です。そこで,陳勝と呉広は「このまま殺されるくらいなら立ち上がろう!」とみなを煽動し,引率者の隊長を斬って,「王侯将相いずくんぞ種あらんや」──王・諸侯・将軍・宰相といった身分は「種」〈=生まれ〉によって定まるものではない! と励まし,陳勝自ら将軍となって挙兵しました。軍は瞬く間に膨れ上がり,貧農出身の陳勝がやがて王にまでのぼりつめました。まさに「王侯将相いずくんぞ種あらんや」です。


 楚漢戦争 

陳勝・呉広の乱をきっかけに天下は混乱し,各地に群雄が割拠します。そうした中,頭角を現したのが,名門出身の将軍項羽と下賤出身の劉邦でした。

はじめ項羽と劉邦はともに同じ主君に仕えて功を競いましたが,前206年,劉邦のほうが秦の都咸陽を落とし秦を滅ぼすという大功をあげます。項羽との関係はこれで徹底的に悪化。2人は敵味方に分かれて天下を争います。

前202年,「四面楚歌」の故事で有名な「垓下(がいか)の戦い」で,劉邦がライバルの項羽を倒し,天下を統一しました。貧民出身の男がとうとう皇帝にのぼりつめたのです。草履売りから皇帝になった劉備といい,乞食坊主から皇帝になった朱元璋といい,下賤出身の皇帝は彼だけではありませんが,それでも彼の出世ぶりはなかなかのもの。彼の廟号は高祖。帝号は高皇帝。新しい王朝の名前をといいます。前代の秦王朝と合わせて秦漢帝国と呼ぶこともあります。


 法三章 

始皇帝の秦と劉邦の漢は対照的な王朝です。

秦が過酷な政治,漢は寛容な政治。秦は3代15年の短命王朝,漢は中断期間を挟むものの29代およそ400年,前3世紀から後3世紀に及ぶ長命王朝。秦は法家思想,漢は儒家思想……。

秦が過酷な法治のせいで滅亡した話はすでにしました関連記事「秦の法運用の実際」関連記事「秦の滅亡」

一方,漢=劉邦の寛容な統治を物語るエピソードが「法三章」です。劉邦は秦を滅ぼしたのち,民がこれまで秦の細かい法律に苦しめられていたことをかんがみ,それまでの法律を撤廃。シンプルに「殺人,傷害,盗み」のみを禁じました。これを「法三章」と呼びます。もちろん民衆は大喜び。劉邦万歳です。

  • 細かく話すと,劉邦はこのときまだ楚の懐王の臣下であり,王はさきだって「先に咸陽を落としたものを,関中(咸陽を中心とする地域=秦の故地)の王にする」と約束していました。そこで,咸陽を落とした劉邦は関中の長老を集め,「長老の方々,みなさんはこれまで秦の法律に苦しめられてきた。わしは懐王との約束により,これから関中の王になる。そこで約束しよう。わしが王となった暁には法は三章のみとすると。『人を殺すものは死刑。人を傷つけたもの,盗みを働いたものは処罰する』,ただそれだけにし,秦法はみな撤廃する!」と約束しました。これで劉邦は長老の心をわしづかみにし,長老は劉邦以外が関中の王になることを恐れました。結果,長老たちの危惧どおり,項羽の横槍が入って劉邦は関中ではなく漢中〈=関中よりももっと南の僻地〉に飛ばされることに。なお劉邦の王朝が「漢」と呼ばれるのはそのためです。

実際に漢を建国したのちは,シンプルな法三章では治安を十分に維持できなかったので(当然です),劉邦が宰相の蕭何に命じ,秦の法律をもとに「九章律」を作らせました。したがって法制度的に,秦と漢はほとんど変わらないと言われています。


 匈奴 

前200年,高祖(位 前202~前195)は匈奴に大敗します。

匈奴」とは,中国の北方に暮らす遊牧騎馬民族で,このころ英主冒頓単于(ぼくとつぜんう)を得て,一大勢力に育っていました。なお名は冒頓。単于は称号で,中国でいえば「皇帝」に当たります。

遊牧騎馬民族のイメージは,定住せず,牧畜を生業とし,乗馬術に優れ,成人男子はいずれも優秀な騎兵であり,ときおり農村を訪れては交易したり略奪したりする感じです。その機動力を活かし,草原地帯(遊牧世界)から定住農耕地帯(農耕世界)に顔を出しては猛烈な暴力をふるい,また草原地帯に姿を消す──そんな存在です。

モンゴル高原─中央アジア─南ロシアを結び,ユーラシアを東西に横断する草原地帯こそが彼らの世界であり,匈奴,鮮卑,突厥,ウイグル,契丹,フン,アヴァール,マジャール,ブルガリア帝国,モンゴル帝国,セルジューク朝,マムルーク朝,オスマン帝国,オイラート,タタール,ジュンガル……世界史のメインプレーヤーがここから生まれます。世界史は遊牧世界が動かしているといっても過言ではありません。


前200年,冒頓単于が国境を犯し,高祖みずから大軍を率いて北上しました。

ところが,季節は冬。しかも天候は大荒れ。寒冷な気候に慣れていない劉邦の漢軍は,兵卒10人のうち2〜3人は凍傷で指を失うありさまで,戦争どころではありません。一方,いくさ上手の冒頓は,精兵を隠して自軍を弱く見せつつ,漢を恐れて退却したふりをし,劉邦を誘い出しました。気を良くして,北へ,北へと追う劉邦。いつしか漢軍の大部分を占める歩兵は置いてけぼりになり,劉邦は少数の車兵・騎兵だけで平城(山西省大同市)にまで進軍していました。

冒頓はこの機を逃さず,精兵40万を投入。孤立した劉邦軍を白登山で包囲しました。蟻も通さぬ厳しい包囲で,7日経っても劉邦は囲みを突破できません。食糧も水も尽き,飢えと渇きが漢軍を襲います。絶体絶命のピンチ。結局,冒頓の奥さん(匈奴では皇后ではなく閼氏と呼ぶ)に厚く贈り物をして口添えしてもらい,冒頓が彼女の言葉を受けて包囲の一角を空けたので,劉邦は危機を脱することができました。

ここで劉邦は匈奴に対して強硬策から懐柔和親策に切り替え,娘(といっても他家の女子を劉邦の娘と偽ったもの)を冒頓の妃として差し出して姻戚関係を結び,毎年,貢物を捧げて匈奴との衝突を回避することにしました。

和親策と消極的外交政策は,劉邦以降も受け継がれることになります。


(つづく)

2019年11月21日木曜日

受験世界史/一橋大学2014・第1問

第1問
次の文章は,ワット・タイラーの乱についてのある年代記作者の記述である。この文章を読んで,問いに答えなさい。

 翌金躍日〔1381年6月13日)農村(ケント,エセックス,サセックス等の地域〕とロンドンの民衆は10万人以上の恐るべき大群となった。この中,ある者達は国王〔リチャード2世〕の到来を待つためブレントウッドを通りマイル・エンドに向った。他の群衆はタワー・ヒルに集まった。7時頃,国王はマイル・エンドに到着する。……民衆の指導者ワット・タイラーは民衆の名の下,国王に次の事項を要求した。すなわち,国王と法に対する反逆者を捕え,彼らを処刑する。そして,民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない,地代は1エーカーにつき4ペンスとする,誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい,というものであった。国王はこれを特許状として発布した。この特許状に基づき,ワット・タイラーと民衆は,カンタベリー大司教シモン・サドベリ,財務府長官ロバート・ヘイルズ等,国王側近を捕え,首をはねた。……翌日,再びタイラーは国王に対し,「ウィンチェスター法以外の法は存在しない,同法以外の法の執行過程での法外処置を禁止する,民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した。国王はこの要求をもあっさり認めたが,……その直後,ロンドン市長ウィリアム・ウォルワースが国王の面前まで突進し,ワットを捕え刺殺した。……かくして,この邪悪な戦争は終った。
 (歴史学研究会編『世界史史料 5』より引用。但し,一部改変)



問い この乱が起こった原因あるいは背景として,14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象が考えられる。この2つが何であるかを明示し,それらが上の資料で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」と,この乱にいたるまでどのように関連していたか論じなさい(400字以内)。

  1. ワットタイラーの乱の原因・背景となった政治的事件社会的事象を考える。
  2. 上の政治的事件・社会的事象が「国王側近」「民衆に対する領主権」とどう関連していたかを論じる。


①社会的事象
山川『詳説世界史B』では「(寒冷化,凶作・飢饉,黒死病,相次ぐ戦乱によって農業人口は減少し,領主は労働力を確保するために農民の待遇を改善した。その結果,農奴解放が進み,特にイギリスでは,かつての農奴は独立自営農民〔ヨーマン〕になった。)やがて経済的に困窮した領主が農民への束縛を強めようとすると,農民たちはこれに抵抗し,農奴制の廃止などを要求して各地で農民一揆をおこした。14世紀後半のフランスのジャクリーの乱やイギリスのワット゠タイラーの乱がそれである」とあり,欄外に小さな字で「❷こうした事態を封建反動と呼ぶ」とあります。

つまり,ワット゠タイラーの乱の原因は「封建反動」にあると書いてあります。これが社会的事象であり,これと「民衆に対する領主権」との関連を論ずるのは難しくありません。あるいは,「農奴解放」かもしれません。農奴制〈=中世の封建的身分制度〉が崩壊し,農民が身分的自由を勝ち取っていく時勢こそが,反乱の背景にある社会的事象だと論じることもできます。


②政治的事件
問題は政治的事件です。上の山川教科書には書いてありません。

山川『詳説世界史研究』には「西ヨーロッパ諸国においても,領主のなかには封建的支配を復活しようとして(封建反動),農民一揆を招くこともあった。(中略)イギリスでも,1381年ワット゠タイラーの乱がおこった。百年戦争の戦費確保のために導入された人頭税に農民が反発,ワット゠タイラーや説教僧ジョン゠ボールに率いられ,イングランド東南部からロンドン市内に進撃し,一時ロンドンを占領した」とあり,①乱の背景に「封建反動」があること,②乱の直接の原因が「百年戦争の戦費確保のための人頭税導入」であることがわかります。

したがって「(百年戦争のために断行した)人頭税の導入」が政治的事件です。設問に「イギリスが直面している政治的事件」とあるので,「人頭税の導入」では違和感が残ります。でも,「百年戦争」としても,戦争を「政治的事件」とは呼ばないので(普通は汚職事件,議会操作,選挙干渉などを政治的事件と呼ぶ),やはり違和感が残ります。というわけで,ここでは「人頭税の導入」にしておきます。

乱の直接の原因が「人頭税」だとわかれば,この人頭税を導入したのが「カンタベリー大司教シモン・サドベリ」と「財務府長官ロバート・ヘイルズ」だと推測するのは容易です。それ以外に彼らが反乱軍に処刑される理由が思いつかないからです(ヘイルズの肩書きには財務とありますし)。反乱軍は,国王(リチャード2世)を責めず,彼らが「国王と法に対する反逆者」と呼ぶ「国王側近」(サドベリ&ヘイルズ)が国王と法に背いて人頭税を導入したと考えていたわけです。

  • カンタベリー大司教がなんで?と疑問に思いますが,シモン゠サドベリは1380年に大法官(=行政の高位責任者)に就任しており、過酷な人頭税を導入した責任者と見なされていました。
  • リチャード2世は1377年に即位したばかりの王で,即位当時10歳。叔父のランカスター公ジョン゠オブ゠ゴーント(のちランカスター朝を開くヘンリ4世の父)らが政治の実権を握っていました。リチャード2世の親政は1389年からです。そもそも議会が人頭税導入を決めたので,農民が議会主導者の責任を追求するのは当然です。

【解答例】
反乱の原因となった政治的事件は,百年戦争の戦費確保のために行った人頭税の導入である。農民は「国王側近」であるシモン・サドベリとロバート・ヘイルズが人頭税導入を主導したと考え,国王にその処刑の許可を要求した。また反乱の背景となった社会的事象は封建的身分制度の崩壊である。14世紀に入り,気候変動,黒死病,戦乱で農村人口が激減し,領主は労働力を確保するために農民の待遇を改善した。その結果,農奴解放は進み,特にイギリスでは多くの農奴が独立自営農民となっていた。この趨勢に対し,領主が封建的支配の復活を試みたところ,農民が反乱を起こした。ワット゠タイラーがその要求の中に,農奴制の廃止,地代の減額,「民衆に対する領主権」の廃止,国民の身分的差別の撤廃を加えているのはそのためである。すでに農奴制が衰退し,身分的差別が是正されつつあったからこそ,時代の流れに逆らう封建反動を農民は許さなかったのだ。

2019年11月12日火曜日

受験世界史/一橋大学2016・第2問

 一橋世界史を解いてみた 

先日、生徒さんから質問があったので、コメントを載せることにしました。
まずは問題がこちら。

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ベルリンにはたくさんの広場がありますが,その中で「最も美しい広場」称されるのは,コンツェルトハウスを中央に,ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが,フランス大聖堂は,その名の通り,ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
 歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば,「ベーベル広場」は,1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で,現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は,ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり,資金不足や技術的困難を乗り越えて,1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが,この円形聖堂は,もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり,彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら,これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)


  1. 「2つの建設された理由を比較しながら」とあるので,「……だからフランス大聖堂は建設された」「……だから聖ヘードヴィヒ聖堂は建設された」,それぞれの「……だから」を比較する。
  2. 「聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景」を説明する。いいかえると,聖堂建設の背景(なぜ聖堂が建設されたのか)を宗教と政治の両面から説明する。


①フランス大聖堂
:1701年着工。プロテスタントの教会。ベルリン在住のユグノーのために建設。
  1. ユグノーとは,フランスの「カルヴァン派」の名称。
  2. 1685年ルイ14世が「ナントの王令」を廃止し,20万を超えるユグノーが亡命を強いられた。ベルリンに約6000人のユグノーがいたのは,このユグノーを受け入れたから。年号的にも「ナントの王令」廃止が背景にあるのはまちがいない。
  3. ユグノーを受け入れたのは,シンプルに国力増強のため。これが聖堂建設の政治的背景。ユグノーの商工業者が大量亡命したことで,フランス経済・産業が停滞した。逆にいえば,ユグノーを受け入れれば,それだけ経済・産業が発展することになる。ユグノーをプロイセンに留めるため,彼らに快適に暮らしてもらうために,「フランス大聖堂」を建設した。
  4. そもそも単純に人口増=国力増と考えていい。特に軍事国家プロイセンにとっては,兵員数を増やすためにも,人口は多ければ多いほどよい。
  5. フランス大聖堂を建設したのは,プロイセンがルター派だから。恐らくベルリンにカルヴァン派の教会がなかったので,フランス人ユグノーのために立派なカルヴァン派の大聖堂を作ったのだろう。これが宗教的背景。

②聖ヘードヴィヒ聖堂
:1747年着工。カトリックの教会。ポーランド系新住民のために建設。
  1. ポーランド人が新たに住民となったのは,オーストリア継承戦争(1740〜1748)でシュレジエンを占領したから。年号的に,民族・宗教を異にする住民が増えるイベントは,オーストリア継承戦争=シュレジエン占領くらいしかない(少なくとも受験生には思いつかない)。

    1740年,プロイセン,シュレジエンを占領。
    1742年,ベルリン条約でオーストリアに領有権を認めさせる。
    1744年,戦争再開。プロイセン,再びオーストリアを撃破。
    1745年,ドレスデン条約でベルリン条約の内容を再確認。
    なお,ベルリン条約もドレスデン条約も教科書未記載。教科書に記載があるアーヘン条約(オーストリア継承戦争の講和条約)は,オーストリア,イギリス,フランス,オランダ,スペインなどが署名しているが,プロイセン,ミュンヘン,ザクセンは参加していない。
  2. シュレジエンにポーランド系住民が多数いたと考えられる。
  3. ポーランド人は旧教徒=カトリック。ここで「ナントの王令廃止」的な宗教寛容令を出せば,たとえ資源豊富なシュレジエンを手に入れたところで,ポーランド系住民が流出して働き手がいなくなる。彼らを引きとめるには,カトリックの聖堂を建設して,どんな信仰でも(カトリックでさえ)認める姿勢を示す必要があった。「内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたもの」とあるのはそのため。「当時の国王」=フリードリヒ2世は,たとえムスリムであっても拒まず受け入れ、彼らのためにモスクを建設しただろう。

【解答案】
1685年,ルイ14世がナントの王令を廃止すると,プロイセンはフランスを後にした多数のユグノーを受け入れた。移民を受け入れることで,人口を増やし,経済・産業を発展させるためである。プロイセンは新教国とはいえルター派なので,ユグノーのためにカルヴァン派のフランス大聖堂を建設した。移民に快適な環境を整備することで,さらなる移民の流入を狙ったと考えられる。1740年,フリードリヒ2世はオーストリア継承戦争でシュレジエンを占領すると,カトリックのポーランド系新住民のために自らデザインして聖へートヴィヒ聖堂を建設した。宗派を問わず国民として受け入れる姿勢を示すことで,人口流出を防ぐと同時に,さらなる移民の流入を狙ったと考えられる。2つの聖堂はいずれも、国力増強のために,宗教・宗派を問わずいかなる移民も受け入れ,また彼らのために宗教施設を整備する,というプロイセンの国策を物語っている。

2019年11月6日水曜日

受験世界史/センター世界史B対策

 シンプルな選択肢と複雑な選択肢 

センター世界史の特徴の1つは,選択肢がやたらシンプルという点です。

たとえば,センター以外の正誤問題の例を挙げると,


ウィーン会議およびウィーン体制に関する次の文章の中から,誤りを含む文章を1つ選びなさい。
  1. ウィーン会議で,オーストリア領ネーデルラントはオランダ領となったが,フランスの七月革命後に独立し,立憲王国となった。
  2. ウィーン会議後も,ドイツのブルシェンシャフトによる改革要求,イタリアの秘密結社カルボナリの蜂起など,自由主義的な改革を求める動きがつづいた。
  3. ウィーン会議後にラテンアメリカでは独立運動が相次ぎ,その結果,ハイチ共和国,ボリビア共和国,ペルー共和国などが成立した。
  4. ウィーン会議が採用した正統主義によりフランスではブルボン家による王政が復活し,ルイ18世を継いだシャルル10世は,オスマン帝国支配下のアルジェリアに出兵した。
(2019慶応経済) 

一見して選択肢ひとつひとつが長いし,複雑だなと感じるかと思います。

判定ポイントも,選択肢1は,

a) ネーデルラントはオーストリア領だったのか
d) 本当にオランダ領になったのか
c) 独立はフランス七月革命後か,それとも二月革命後か
d) 立憲王国,それとも立憲共和国?(つまりベルギー王はいたのか)

……とやたら多いです。


選択肢2は,

a) ドイツのブルシェンシャフトはウィーン会議直後(=革命の第1波)か
それとも七月革命後(=革命の第2波),二月革命後(=革命の第3波)か

b) イタリアのカルボナリの蜂起はウィーン会議直後(=革命の第1波)か
それとも七月革命後(=革命の第2波),二月革命後(=革命の第3波)か
  • 19世紀前半の歴史では,ある項目(例えば,コッシュートの独立運動とか マッツィーニのローマ共和国建設)が,革命の第1波(1815年〜),第2波(1830年〜),第3波(1848年〜),どのタイミングで起きたのかを判定させる正誤問題は頻出です。整理必須。
c) どちらも「自由主義的な改革を求める動き」と呼んでよいのか


選択肢3は,

a) ラテンアメリカの独立運動はウィーン会議後か
b) その独立国は,ハイチ共和国,ボリビア共和国,ペルー共和国でよいか


選択肢4は,

a)「正統主義」で正しいか
b) 復活したのは「ブルボン家」か
c) 王政復古最初の王は「ルイ18世」か
d) 「ルイ18世」の次が「シャルル10世」か
e) アルジェリアを支配下に置いていたのは「オスマン帝国」か
f) シャルル10世が出兵したのは「アルジェリア」か

と判定ポイントだらけです。「あれ,ヴァロワ家は?」「王政復古ってことは,処刑されたルイ16世の後継者ってことでしょ? あれ,ルイ17世は?」「アルジェリアってオスマン帝国の支配下だっけ? もう独立してない?」「あれ,チュニジア出兵かも?」「ルイ゠フィリップって,どのタイミングで出てきたっけ?」とか悩みはじめたら,もう終わりです。
  • 「ルイ17世」は,ルイ16世とマリー゠アントワネットの次男で,マリーから「愛のキャベツ」と呼ばれて可愛がられましたが,両親がギロチンで処刑された挙句,革命派の靴屋に預けられ,凄惨な児童虐待を受けたのち,わずか10歳で結核に斃れた,悲劇の王太子。「ルイ18世」はルイ16世の弟。

単に,ハイチがフランスから独立したのはまだナポレオンの時代(つまりウィーン会議前,正確には1804年)。ナポレオンは1803年に「ミシシッピ以西のルイジアナ」を格安でアメリカに売り,翌年にハイチも失って,西半球〈=新世界〉から撤退した……さえ覚えていれば,選択肢3が誤りだと気づけます。ハイチが中南米初の独立例であり,それがナポレオン戦争中だった(少なくともウィーン会議前だった)ことはセンターレベルの知識なので、見かけに反して解答はさほど難しくありません。

センター以外の正誤問題の場合,判定ポイントがとても多く,しかも「1830年,ベルギー独立」を覚えていたとしても,それが「王国」か「共和国」かまで知らなければ,明確な正誤判定ができません。「ウィーン会議のころ,ラテンアメリカで独立運動が活発化した」は覚えていたとしても,「ハイチ共和国,ボリビア共和国,ペルー共和国」と並べられると,戸惑うでしょう。

ハイチ(1804年 独立)
コロンビア(1810年 独立)
ベネズエラ(1811年 独立)
パラグアイ(1811年 独立)

ここまでがウィーン会議前

アルゼンチン(1816年 独立)
チリ(1810年 自治政府樹立 → 1818年 独立)
メキシコ(1810年 武装蜂起 → 1821年 独立)
ペルー(1821年 独立)
ブラジル(1822年 独立)
ウルグアイ(1830年 独立)

このあたりがウィーン会議後

ラテンアメリカの独立がウィーン会議前後に集中しているのは,独立運動の引き金が2回あったからです。1回目が1808年。ナポレオンの侵攻を受けてスペイン本国(ラテンアメリカに多くの植民地を所有)が大混乱に陥り,独立の絶好のチャンスを植民地側に与えてくれました。2回目が1820年。スペイン本国で自由主義革命が起き,自由主義=植民地支配から解放ということで,独立の気運が高まりました。10・11年独立組と21・22年独立組がいるのはそのためです。

というわけで,まとめ。

  1. センター以外の正誤問題では,判定ポイントがやたら多い。
  2. その多くが高度な判定を要求する(受験生は大混乱)。
  3. ところが,答えるためにはセンターレベルの知識(ハイチの独立はウィーン会議前)さえあればよい。
  4. つまり,そこら中にある「目くらまし」に惑わされず,確実に正誤判定できる判定ポイントを見つけ出せば,センターレベルの知識でも解ける(はず。少なくとも多くの問題は)。

2019年11月4日月曜日

受験世界史/センター世界史B対策

 意外に余裕の解答時間 

  1. 全36問
  2. 解答時間60分
  3. 単純計算で1問あたり1分40秒=100秒
「1分40秒」は,けっこう長めです。計算したり読解したりが面倒な数学・物理・国語・英語などと異なり,世界史は答えを覚えていれば秒で解けるからです。

たとえば,

「イスラーム神秘主義」を表す語として正しいものを選べ。

 ① ジハード ② バクティ ③ スーフィズム ④ シャリーア
(2014本試験) 

仮にうろ覚えでも,正解は ③ スーフィズム とわかります。

ジハード は「聖戦」,② バクティ はそもそもヒンドゥー教の言葉で,「神に対する絶対的な帰依・信愛」,④ シャリーア は「イスラーム法」を表します。

まさに秒で解けます。





 センター世界史の大半は4択正誤問題 
 
とはいえ,センター世界史の大部分が四択正誤問題です。選択肢の正誤を1つあたり25秒で判定することになります。

たとえば,

朝鮮半島の歴史について述べた文として正しいものを選べ。

① 高句麗・新羅・百済が並び立った時代は,三国時代と呼ばれる。
② 高麗は,大祚栄によって建国された。
③ 大院君は,欧米諸国の開国要求を受け入れた。
④ 李承晩政権は,日韓基本条約を結んだ。
(2019本試験)

これらの選択肢を1つあたり25秒で正誤判断します。もちろん,しっかり知識が定着している場合は,選択肢に目を通した瞬間に判断できます。

「高麗の建国者は王建じゃん。大祚栄は渤海の建国者でしょ」「大院君は開国要求を拒んで日本の征韓論を沸騰させた人じゃん。逆でしょ、逆。朝鮮が開国を拒んだから,日本は江華島事件を機に,武力で威圧して開国させたはず!」と,一瞬で②・③を消したりできます。

ところが,うろ覚えだと,「あ,日韓基本条約って戦後史の項目だ! 李承晩は確か韓国ができてすぐの大統領で……えっと,日韓基本条約もけっこう戦後すぐだった気がするなあ……」などと悩んでいるうちに,あっという間に25秒を使い果たします。

でも,大丈夫。

①②③あたりを平均8秒で判断していれば,まだ76秒も残っています。しっかりマークする時間を含めても,たっぷり1分は考えられるでしょう。日韓基本条約で,a)韓国は日本から多額の経済援助を受け,b)「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げた,c)それは日本の高度経済成長期(60年代)の少し後で,d)そのころさすがに李承晩ではなさそうだな(年齢的に)などと発想していけば,④は「誤りっぽい」と推測できます。

何か正誤判断の根拠になりそうなことを思い出すのがポイントです。




 はじめから100点を目指さない 

全項目,正確に覚えている必要はありません。

仮に,全36問のうち半分の18問がうろ覚えだったとしても,とりあえず選択肢を2つ消せれば,正解を選ぶ確率がきっちり五分五分(完全にランダム)だとしても,18問中9問は当たります。18問+9問=27問正解で,正答率75%です。

実際には,完全五分五分はありえないので,6:4か7:3くらいで正解を選べるでしょう。これで,36問中29〜31問正解,正答率80%越え(最大86%)。

そもそも得点9割を目標に定めれば,3〜4問は誤答しても大丈夫です。

計算すると,全36問のうち10問(約28%)がうろ覚えでも,確率的には90%を越えます。実感として,3問に1問程度,「あれ?」という問題があっても,90%は狙えるというわけです。これを4問に1問,5問に1問(7問はうろ覚えでもよい)まで改善できれば,何度かに1度は満点を取れるレベルに達します。

さすがに,100回受験して100回とも満点取れるレベルまで自分の知を鍛えるのは骨が折れます。世界史だけならまだしも,英語も数学も勉強しなければならないので,毎回9割越え,5回に3回は満点取れるレベルなら,もうそれ以上は求める必要なんてないのじゃないか,と思っています。

2016年10月15日土曜日

受験世界史まとめ/海戦④

番外編

ディウ沖の海戦
時:1509年
場所:インド洋(ムンバイ西・ディウ島沖)
主な人物:アルメイダ(ポルトガル提督)

ポルトガル艦隊 vs. エジプト・インド連合艦隊

1498年,ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがインドのコショウ貿易港カリカットに到達します。その後,ポルトガルはインド洋の武力制圧を開始。商船ではなく,武器弾薬と兵員を満載した軍船を派遣し,東アフリカのキルワ,ソファラ,モザンビークなどに要塞を建設して,インド航路の独占を図りました。

初代インド総督に任命されたのがアルメイダです。

ポルトガルのインド洋進出に危機感を抱いたエジプトのマムルーク朝は,インドの諸侯と連合艦隊を結成して,これに対抗しようとします。これまでコショウなどの香辛料は,インド→インド洋→紅海→エジプトを経て,ヴェネチア商人の手でヨーロッパ市場に流れ込んでいました(紅海で中継貿易の担い手になっていたがカーリミー商人です)。ポルトガルの進出をゆるせば,香辛料はインド→喜望峰を経てポルトガル商人の手で売りさばかれることになります。カーリミー商人にとってもヴェネチア商人とっても,避けたい事態でした。

1509年,ディウ沖で両軍は衝突し,アルメイダ率いるポルトガル海軍が勝利して(ディウ沖の海戦),インド航路を確保。以降,ポルトガルはインドのゴア,ペルシア湾口のホルムズ,マレー半島のマラッカなどに進出して,海上帝国を作りあげました。首都リスボンは大いに繁栄します。一方,マムルーク朝は急速に衰退し,1517年にはセリム1世率いるオスマン帝国軍に敗れて滅亡してしまいます。ディウ沖の海戦は,ポルトガル・マムルーク朝の存亡を決定づける戦いになったわけです。

結果:ポルトガル側の勝利



アルマダ海戦
時:1588年
場所:ドーヴァー海峡,カレー沖
主な人物:エリザベス1世(イギリス女王),フェリペ2世(スペイン王)

スペイン艦隊 vs. イギリス艦隊

アルマダとは,スペインの無敵艦隊 Armada Invencible のこと。Armadaが「海軍」,Invencibleが「無敵の/難攻不落の」などを意味します。

背景にあるのは,イギリスとスペインの宗教対立です。イギリスがプロテスタント(新教/イギリス国教会),スペインがカトリック(旧教)です。このころ,フランスではユグノー戦争(1562~98),ネーデルラント(「低地地帯」:オランダ+ベルギー+その他)ではオランダ独立戦争(1568~1609)と,新教vs.旧教の宗教戦争が起きていました。

ユグノー戦争の「ユグノー」とは,カルヴァン派の新教徒を指します。フランス王(ヴァロワ家)のシャルル9世やその母カトリーヌ=ド=メディシス,ギーズ公アンリが旧教側,ブルボン家のナバラ王アンリ(のちのアンリ4世)が新教側です。1572年のサンバルテルミの虐殺カトリーヌが主導したとされる旧教徒による新教徒殺害事件。犠牲者は3万人とも)を機に両派の対立は加熱し,血で血を洗う抗争が始まります。フェリペ2世はもちろん旧教側を支援。軍隊すら派遣します。一方,エリザベス1世は新教側を支援しました。

オランダ独立戦争は,ネーデルラントの新教徒(ゴイセン)がスペインからの独立を求めて起こしたものです。フェリペ2世が旧教側,オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)が新教側です。エリザベス1世はもちろん新教側を支援します。イギリスはネーデルラントと経済的に強く結びついていたからです。具体的には,イギリス産羊毛の主要な輸出先=フランドル地方(毛織物業で有名)がここにありました。あわよくば,邪魔者のスペイン人どもをネーデルラントから追放したいと考えていたわけです(ちなみに,17世紀にはイギリス本国で毛織物の完成品を生産できるようになり,18世紀には世界最大の毛織物大国になります)。

これだけでもフェリペ2世を激怒させるに十分ですが,さらにイギリスの私拿捕船(私掠船:国家公認の海賊船)がカリブ海でスペイン船を公然と襲って積み荷の金銀財宝を奪っていたのですからなおさらです。この私拿捕船の船長として有名なのがドレークホーキンズでした。

1588年,エリザベス1世がスコットランドの元女王メアリ゠スチュアート(ギーズ公アンリの姪で,旧教徒)を処刑すると,フェリペ2世は,戦艦130,船員8000からなる無敵艦隊アルマダ。正しくはGran Armada 大艦隊)を編成し,上陸用の兵員1万9000を乗り込ませて,イギリス本土侵攻を計画しました。

ところが,スペインの海軍兵士ファン゠マルティネスは

「神が奇跡を起こしてくれなければ,イングランド艦隊は,わが艦隊よりも速く操作性に優れた艦船を持ち,わが艦隊よりも長い射程の銃器を備えており,しかもそうした自らの長所を熟知しているから,接近戦に持ち込むことなく,距離を置いてわが艦隊を撃破するだろう」

と述べています。神の奇跡がなければ勝てないと彼は言っているわけです。はじめからスペインは劣勢でした。

結局,司令官ホーキンズと副提督ドレークが指揮するイギリス海軍は,マルティネスが危惧したとおり,機動力と軽砲を駆使してスペイン無敵艦隊を打ち破りました。翌年,スペインに帰国できたスペイン兵は約半数だったと言われています。イギリスの大勝でした。

この後,スペインは没落し,イギリスが海上覇権を握ることになります。

結果:イギリス側の勝利。

2016年10月10日月曜日

受験世界史まとめ/海戦③


トラファルガーの海戦
時:1805年
場所:ジブラルタル海峡(トラファルガー岬沖)
主な人物:ネルソン(イギリス海軍提督),ナポレオン1世(フランス皇帝)

イギリス海軍 vs. フランス・スペイン連合艦隊

ナポレオン戦争(1796~1814)の一幕。この海戦でイギリスが制海権を握ります。

1802年,イギリスとフランスはアミアンの和約を結び,両国の戦争はいったん終結しました。ところが,1804年,ナポレオンが戴冠して第一帝政を開始すると,翌年,イギリスはロシア・オーストリアなどとともに第3回対仏大同盟を結び,フランスと開戦しました。

10月,ネルソン提督率いるイギリス海軍がトラファルガー岬沖でフランス・スペイン連合艦隊を撃破しました(トラファルガーの海戦)。この勝利でイギリスは制海権を握り,ナポレオンのイギリス本土侵攻の野望を打ち砕き,彼をヨーロッパ大陸に封じ込めることに成功します。

なお,陸上では,同年12月にナポレオン率いるフランス軍がアウステルリッツの会戦,通称「三帝会戦」で,ロシア(アレクサンドル1世)・オーストリア(フランツ2世)の連合軍を撃破し,第3回対仏大同盟を粉砕しました。ちなみに,3人の皇帝がそろったので「三帝会戦」です。

【こぼれ話】
トラファルガーの海戦で,ネルソンは旗艦ヴィクトリーに「Z旗」を掲げ,勝利を祈願しました。

ちなみに,ネルソンはこの海戦で敵に狙撃されて戦死。「神に感謝する。われはわが義務を果たせり」の言葉を残して死んだのち,遺体の腐敗を防ぐため,ラム酒の樽に漬け込まれました。ここからラム酒を「ネルソンの血」と呼ぶようになり,ネルソンにあやかってイギリス国民が争ってラム酒を飲んだそうです(でも,実際にネルソンが漬け込まれたのはラム酒ではなくブランデー)。

結果:イギリス側の勝利



日本海海戦
時:1905年
場所:日本海(対馬沖)
主な人物:東郷平八郎(日本司令官)

連合艦隊(日本) vs. バルチック艦隊(ロシア)

日露戦争(1904~05)の一幕。この海戦を機に,日露両国は講和します。

1904年,満州をめぐって日本とロシアが開戦。翌年1月には旅順要塞陥落,3月には奉天会戦と日本軍の勝利が続き,5月に起こったのが日本海海戦です。「トラファルガーの海戦以来最大の海戦」と呼ばれています。

1904年10月,旅順港に閉じ込められた太平洋艦隊を救出すべく,ロシアはバルト海に駐留するバルチック艦隊38隻を極東に向かわせました。バルチック艦隊は222日かけて日本海に到着。その間,日本の同盟国イギリス(日英同盟:1902年締結)に散々妨害されて,身も心もボロボロになっているところ,対馬沖で東方平八郎率いる日本の連合艦隊に迎撃されました。38隻中,沈没19隻,捕獲5隻,残り12隻は戦場を離脱できたものの,結局,武装解除を受けることに。司令官以下約6000名が捕虜となる大敗を喫しました。

ロシアはこの敗戦で戦勝の望みを失い,アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領の仲裁を受けて,講和条約(ポーツマス条約)を締結することになります。

【こぼれ話】
ちなみに,このとき東郷司令官が採用したとされる「T(ティー)字作戦」は実は「丁(てい)字作戦」。

東郷司令官も,ネルソン提督にちなんで,旗艦三笠(みかさ)に「Z旗」を掲げました。以来,日本海軍の伝統となります。なお,日産フェアレディZの「Z」はこのZ旗にちなんでます。

結果:日本側の勝利



ミッドウェー海戦
時:1942年
場所:太平洋(ミッドウェー島沖)
主な人物:山本五十六(日本司令官)

太平洋戦争(1941~45)中の一幕。この海戦を機に,日本は太平洋の主導権を失います。

1941年12月8日(アメリカ時間では7日),日本の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まりました。日本は東南アジア・南太平洋で主導権を握り,マレー半島,香港,シンガポール,インドネシア,フィリピン,ソロモン諸島を占領し,ミャンマーを征服。「大東亜共栄圏」の建設を進めました。

翌年6月,山本五十六連合艦隊総司令官は,艦艇47隻(うち空母4隻),航空機285機を誇る機動部隊を編成し,ミッドウェー島に向かいます。ここにアメリカの機動部隊をおびき寄せて,空母を撃滅するとともに,ミッドウェー島に前線基地を築くというねらいでした。

アメリカ側の戦力は,艦艇35隻(うち空母3隻),航空機233機と,日本よりもやや劣っていましたが,アメリカ軍は日本軍の暗号を解読しており,作戦内容を一から十まで把握していたので,日本の全空母および航空機を撃滅するという大勝利を収めました。

この敗戦を機に日本は戦争の主導権を失い,1945年に敗戦を迎えます。

結果:日本側の敗北


【残り】ディウ沖の海戦/アルマダ海戦/ナヴァリノの海戦