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2016年10月15日土曜日

受験世界史まとめ/海戦④

番外編

ディウ沖の海戦
時:1509年
場所:インド洋(ムンバイ西・ディウ島沖)
主な人物:アルメイダ(ポルトガル提督)

ポルトガル艦隊 vs. エジプト・インド連合艦隊

1498年,ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがインドのコショウ貿易港カリカットに到達します。その後,ポルトガルはインド洋の武力制圧を開始。商船ではなく,武器弾薬と兵員を満載した軍船を派遣し,東アフリカのキルワ,ソファラ,モザンビークなどに要塞を建設して,インド航路の独占を図りました。

初代インド総督に任命されたのがアルメイダです。

ポルトガルのインド洋進出に危機感を抱いたエジプトのマムルーク朝は,インドの諸侯と連合艦隊を結成して,これに対抗しようとします。これまでコショウなどの香辛料は,インド→インド洋→紅海→エジプトを経て,ヴェネチア商人の手でヨーロッパ市場に流れ込んでいました(紅海で中継貿易の担い手になっていたがカーリミー商人です)。ポルトガルの進出をゆるせば,香辛料はインド→喜望峰を経てポルトガル商人の手で売りさばかれることになります。カーリミー商人にとってもヴェネチア商人とっても,避けたい事態でした。

1509年,ディウ沖で両軍は衝突し,アルメイダ率いるポルトガル海軍が勝利して(ディウ沖の海戦),インド航路を確保。以降,ポルトガルはインドのゴア,ペルシア湾口のホルムズ,マレー半島のマラッカなどに進出して,海上帝国を作りあげました。首都リスボンは大いに繁栄します。一方,マムルーク朝は急速に衰退し,1517年にはセリム1世率いるオスマン帝国軍に敗れて滅亡してしまいます。ディウ沖の海戦は,ポルトガル・マムルーク朝の存亡を決定づける戦いになったわけです。

結果:ポルトガル側の勝利



アルマダ海戦
時:1588年
場所:ドーヴァー海峡,カレー沖
主な人物:エリザベス1世(イギリス女王),フェリペ2世(スペイン王)

スペイン艦隊 vs. イギリス艦隊

アルマダとは,スペインの無敵艦隊 Armada Invencible のこと。Armadaが「海軍」,Invencibleが「無敵の/難攻不落の」などを意味します。

背景にあるのは,イギリスとスペインの宗教対立です。イギリスがプロテスタント(新教/イギリス国教会),スペインがカトリック(旧教)です。このころ,フランスではユグノー戦争(1562~98),ネーデルラント(「低地地帯」:オランダ+ベルギー+その他)ではオランダ独立戦争(1568~1609)と,新教vs.旧教の宗教戦争が起きていました。

ユグノー戦争の「ユグノー」とは,カルヴァン派の新教徒を指します。フランス王(ヴァロワ家)のシャルル9世やその母カトリーヌ=ド=メディシス,ギーズ公アンリが旧教側,ブルボン家のナバラ王アンリ(のちのアンリ4世)が新教側です。1572年のサンバルテルミの虐殺カトリーヌが主導したとされる旧教徒による新教徒殺害事件。犠牲者は3万人とも)を機に両派の対立は加熱し,血で血を洗う抗争が始まります。フェリペ2世はもちろん旧教側を支援。軍隊すら派遣します。一方,エリザベス1世は新教側を支援しました。

オランダ独立戦争は,ネーデルラントの新教徒(ゴイセン)がスペインからの独立を求めて起こしたものです。フェリペ2世が旧教側,オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)が新教側です。エリザベス1世はもちろん新教側を支援します。イギリスはネーデルラントと経済的に強く結びついていたからです。具体的には,イギリス産羊毛の主要な輸出先=フランドル地方(毛織物業で有名)がここにありました。あわよくば,邪魔者のスペイン人どもをネーデルラントから追放したいと考えていたわけです(ちなみに,17世紀にはイギリス本国で毛織物の完成品を生産できるようになり,18世紀には世界最大の毛織物大国になります)。

これだけでもフェリペ2世を激怒させるに十分ですが,さらにイギリスの私拿捕船(私掠船:国家公認の海賊船)がカリブ海でスペイン船を公然と襲って積み荷の金銀財宝を奪っていたのですからなおさらです。この私拿捕船の船長として有名なのがドレークホーキンズでした。

1588年,エリザベス1世がスコットランドの元女王メアリ゠スチュアート(ギーズ公アンリの姪で,旧教徒)を処刑すると,フェリペ2世は,戦艦130,船員8000からなる無敵艦隊アルマダ。正しくはGran Armada 大艦隊)を編成し,上陸用の兵員1万9000を乗り込ませて,イギリス本土侵攻を計画しました。

ところが,スペインの海軍兵士ファン゠マルティネスは

「神が奇跡を起こしてくれなければ,イングランド艦隊は,わが艦隊よりも速く操作性に優れた艦船を持ち,わが艦隊よりも長い射程の銃器を備えており,しかもそうした自らの長所を熟知しているから,接近戦に持ち込むことなく,距離を置いてわが艦隊を撃破するだろう」

と述べています。神の奇跡がなければ勝てないと彼は言っているわけです。はじめからスペインは劣勢でした。

結局,司令官ホーキンズと副提督ドレークが指揮するイギリス海軍は,マルティネスが危惧したとおり,機動力と軽砲を駆使してスペイン無敵艦隊を打ち破りました。翌年,スペインに帰国できたスペイン兵は約半数だったと言われています。イギリスの大勝でした。

この後,スペインは没落し,イギリスが海上覇権を握ることになります。

結果:イギリス側の勝利。

2016年10月9日日曜日

受験世界史まとめ/海戦②


プレヴェザの海戦
時:1538年
場所:イオニア海東海岸(プレヴェザ沖)
主な人物:カルロス1世(スペイン王),スレイマン1世(オスマン帝国スルタン)

カトリック連合艦隊 vs. オスマン帝国艦隊

オーストリア・トルコ戦争(1526~1699)の一幕。オスマン帝国の「壮麗者」スレイマン1世は,1526年,モハーチの戦いに勝利してハンガリーを征服し,1529年にはさらに北上してウィーンを包囲しました(第1次ウィーン包囲)。慣れない寒さに苦しんでオスマン軍は撤退しますが,ヨーロッパのキリスト教徒を震え上がらせました。

この間,オスマン海軍は1522年にロードス島の聖ヨハネ騎士団を撃退して東地中海に進出し,1538年にはスペイン・ヴェネチア・ローマ教皇のカトリック連合艦隊をプレヴェザ沖で撃破して(プレヴェザの海戦),全地中海の制海権を掌握しました

このとき,スペイン王はカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)。ローマ教皇はパウルス3世で,1545年にトリエント公会議を招集した教皇として有名です。

結果:オスマン側の勝利



レパントの戦い
時:1571年
場所:ギリシア(コリントス湾北岸レパント沖)
主な人物:フェリペ2世(スペイン王)

カトリック連合艦隊 vs. オスマン帝国艦隊

オーストリア・トルコ戦争(1526~1699)の一幕。1570年,オスマン帝国がキプロス島を征服します。これに対し,スペイン・ヴェネチア・ローマ教皇がふたたび同盟を結び,カトリック連合艦隊を結成しました。

翌1571年,カトリック連合艦隊はオスマン帝国艦隊をレパント沖で撃破して(レパントの海戦),地中海の制海権を取り戻しました。レパントの海戦は,16世紀最大の海戦と評されます。両軍合わせて400隻を越えるガレー船,2500門の大砲,16万人の将兵が参加し,その4分の1が戦死したそうです。

このとき,スペインの文豪セルバンテスが一兵卒として参加。彼はこの海戦を「かつてなかった最も偉大な一瞬」と呼んで讃えています。ちなみに,彼は1575年に退役。帰国途中,トルコの捕虜となり,5年間も幽閉されます。名作『ドン・キホーテ』を出版するのは1605年(前編)。還暦を迎える直前のことでした。

結果:カトリック側の勝利

  • カトリック側から見れば,プレヴェザの海戦で失った制海権をレパントの海戦で取り戻した,となります。
  • レパントの海戦からアルマダ海戦までは,スペイン艦隊は「無敵艦隊」でした。といっても,レパントの海戦はヴェネチア艦隊のおかげで勝ったようなものなので,「無敵艦隊」は敵と戦うまでは無敵だったと皮肉を込めて言われたりします。
  • ヴェネチアがオスマン海軍と対立したのは,彼らが東地中海の覇者だったからです。忘れがちですが,ヴェネチアは十字軍をきっかけに台頭し,このころ地中海交易圏=東方貿易のメインプレーヤーとなっていました。

【残り】トラファルガーの海戦/日本海海戦/ミッドウェー海戦