- 周は犬戎の侵攻を受けて洛邑に遷都した。
- 東周時代はさらに春秋時代と戦国時代に分かれる。
- 戦国時代には「諸子百家」と呼ばれる思想家が活躍した。
STEP 2
周の東遷
前770年,周は「犬戎」と呼ばれる異民族の侵入を受けます。都の鎬京は陥落し,東方の洛邑(現在の洛陽)に遷都するハメになりました。この事件を「周の東遷」と呼びます。なお,中国史では,それ以前の,鎬京を都とした周を「西周」,洛邑遷都後の周を「東周」と呼び分けています。
西周:都 鎬京
東周:都 洛邑
東周は,さらに「春秋時代」と「戦国時代」に区分されます。
春秋時代
「春秋時代」は,孔子が編纂したとされる編年体の歴史書『春秋』にちなんだ名前です。始まりは前722年。『春秋』の記録がこの年から始まるからです。
覇者
春秋時代の特徴は「覇者」です。
東遷を機に,周王室の権威は失墜しました。周王が諸侯に号令をかけても誰も従わなくなったのです。諸侯たちは封土を受けた恩をすっかり忘れました。すると,諸侯の中で軍事力・経済力に優れた有力者が,周王に代わって号令をかけるようになりました。「覇者」とは,この有力諸侯を指します。覇者は他の諸侯に集合するよう号令し,「尊王攘夷」のスローガンのもと,集まった諸侯たちに,ともに周王室を尊崇し(尊王),力を合わせて蛮夷を攘(う)ち払う(攘夷)よう誓わせました。これを「会盟」と呼びます。一堂に会して盟約を結ぶという意味です。儀式の最後には,覇者が犠牲として神に供える牛の耳をとり,刃で傷をつけ,流れ出た血をすすって神に誓いました。ここから「牛耳をとる」→「牛耳る」という言葉が生まれたそうです。
このころ,長江流域に「楚」という強国が生まれており,楚の君主は「楚王」を称して,自分は周王と対等の存在であるとアピールしていました(「鼎の軽重を問う」)。「攘夷」の「夷」とは,この楚王を指します。のち黄河流域の諸侯が楚王の号令に従うこともあったので,楚の荘王も覇者の1人になりました。それどころか,同じく「夷」の国とされる「呉」「越」(ともに長江流域)の,呉王夫差や越王勾践も覇者になっています。この時代を代表する五人の覇者を「春秋の五覇」と総称しますが,そのメンバーは,斉の桓公,晋の文公,楚の荘王,呉王夫差(あるいは,その父の闔閭),越王勾践で,五人中三人がなんと「夷」国の王です。
戦国時代
「戦国時代」は,前漢の劉向が編纂した『戦国策』にちなんだ名前です。前403年に始まります。この年,晋の卿である韓氏・魏氏・趙氏が,周王から新しく諸侯として認められたことをきっかけとしています。
下克上
戦国時代の特徴は「下克上」=実力本位の風潮です。
春秋時代には「尊王攘夷」のスローガンに出ているように,周王の権威がまだ残っていました。覇者は周王を尊崇する姿勢を,形だけとはいえ,保っていました。ところが,戦国時代には,諸侯たちが「王」号を称するようになります。「戦国の七雄」と総称される秦,斉,楚,燕,韓,魏,趙のビッグセブンは,いずれも王を称しました(楚王は春秋時代からずっと)。彼らは,周王と並ぶ存在,あるいは,周王に代わる存在だと,それぞれ自任していたわけです。王にふさわしい実力があれば,王号を称してもよい,諸侯にふさわしい実力があれば,主君を倒して新しく諸侯になってもよい――「下克上」〈=下位の者が実力で上位の者を超克する〉が,この時代の風潮でした。卿の韓氏・魏氏・趙氏が主君の晋氏を倒して新しく諸侯になったことを「戦国時代の始まり」と見なすのは,こうした理由からです。
(つづき)
戦国時代の社会経済的変化①「宗族の崩壊」編
戦国時代の社会経済的変化②「商人の台頭」編
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