2019年11月21日木曜日

受験世界史/一橋大学2014・第1問

第1問
次の文章は,ワット・タイラーの乱についてのある年代記作者の記述である。この文章を読んで,問いに答えなさい。

 翌金躍日〔1381年6月13日)農村(ケント,エセックス,サセックス等の地域〕とロンドンの民衆は10万人以上の恐るべき大群となった。この中,ある者達は国王〔リチャード2世〕の到来を待つためブレントウッドを通りマイル・エンドに向った。他の群衆はタワー・ヒルに集まった。7時頃,国王はマイル・エンドに到着する。……民衆の指導者ワット・タイラーは民衆の名の下,国王に次の事項を要求した。すなわち,国王と法に対する反逆者を捕え,彼らを処刑する。そして,民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない,地代は1エーカーにつき4ペンスとする,誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい,というものであった。国王はこれを特許状として発布した。この特許状に基づき,ワット・タイラーと民衆は,カンタベリー大司教シモン・サドベリ,財務府長官ロバート・ヘイルズ等,国王側近を捕え,首をはねた。……翌日,再びタイラーは国王に対し,「ウィンチェスター法以外の法は存在しない,同法以外の法の執行過程での法外処置を禁止する,民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した。国王はこの要求をもあっさり認めたが,……その直後,ロンドン市長ウィリアム・ウォルワースが国王の面前まで突進し,ワットを捕え刺殺した。……かくして,この邪悪な戦争は終った。
 (歴史学研究会編『世界史史料 5』より引用。但し,一部改変)



問い この乱が起こった原因あるいは背景として,14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象が考えられる。この2つが何であるかを明示し,それらが上の資料で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」と,この乱にいたるまでどのように関連していたか論じなさい(400字以内)。

  1. ワットタイラーの乱の原因・背景となった政治的事件社会的事象を考える。
  2. 上の政治的事件・社会的事象が「国王側近」「民衆に対する領主権」とどう関連していたかを論じる。


①社会的事象
山川『詳説世界史B』では「(寒冷化,凶作・飢饉,黒死病,相次ぐ戦乱によって農業人口は減少し,領主は労働力を確保するために農民の待遇を改善した。その結果,農奴解放が進み,特にイギリスでは,かつての農奴は独立自営農民〔ヨーマン〕になった。)やがて経済的に困窮した領主が農民への束縛を強めようとすると,農民たちはこれに抵抗し,農奴制の廃止などを要求して各地で農民一揆をおこした。14世紀後半のフランスのジャクリーの乱やイギリスのワット゠タイラーの乱がそれである」とあり,欄外に小さな字で「❷こうした事態を封建反動と呼ぶ」とあります。

つまり,ワット゠タイラーの乱の原因は「封建反動」にあると書いてあります。これが社会的事象であり,これと「民衆に対する領主権」との関連を論ずるのは難しくありません。あるいは,「農奴解放」かもしれません。農奴制〈=中世の封建的身分制度〉が崩壊し,農民が身分的自由を勝ち取っていく時勢こそが,反乱の背景にある社会的事象だと論じることもできます。


②政治的事件
問題は政治的事件です。上の山川教科書には書いてありません。

山川『詳説世界史研究』には「西ヨーロッパ諸国においても,領主のなかには封建的支配を復活しようとして(封建反動),農民一揆を招くこともあった。(中略)イギリスでも,1381年ワット゠タイラーの乱がおこった。百年戦争の戦費確保のために導入された人頭税に農民が反発,ワット゠タイラーや説教僧ジョン゠ボールに率いられ,イングランド東南部からロンドン市内に進撃し,一時ロンドンを占領した」とあり,①乱の背景に「封建反動」があること,②乱の直接の原因が「百年戦争の戦費確保のための人頭税導入」であることがわかります。

したがって「(百年戦争のために断行した)人頭税の導入」が政治的事件です。設問に「イギリスが直面している政治的事件」とあるので,「人頭税の導入」では違和感が残ります。でも,「百年戦争」としても,戦争を「政治的事件」とは呼ばないので(普通は汚職事件,議会操作,選挙干渉などを政治的事件と呼ぶ),やはり違和感が残ります。というわけで,ここでは「人頭税の導入」にしておきます。

乱の直接の原因が「人頭税」だとわかれば,この人頭税を導入したのが「カンタベリー大司教シモン・サドベリ」と「財務府長官ロバート・ヘイルズ」だと推測するのは容易です。それ以外に彼らが反乱軍に処刑される理由が思いつかないからです(ヘイルズの肩書きには財務とありますし)。反乱軍は,国王(リチャード2世)を責めず,彼らが「国王と法に対する反逆者」と呼ぶ「国王側近」(サドベリ&ヘイルズ)が国王と法に背いて人頭税を導入したと考えていたわけです。

  • カンタベリー大司教がなんで?と疑問に思いますが,シモン゠サドベリは1380年に大法官(=行政の高位責任者)に就任しており、過酷な人頭税を導入した責任者と見なされていました。
  • リチャード2世は1377年に即位したばかりの王で,即位当時10歳。叔父のランカスター公ジョン゠オブ゠ゴーント(のちランカスター朝を開くヘンリ4世の父)らが政治の実権を握っていました。リチャード2世の親政は1389年からです。そもそも議会が人頭税導入を決めたので,農民が議会主導者の責任を追求するのは当然です。

【解答例】
反乱の原因となった政治的事件は,百年戦争の戦費確保のために行った人頭税の導入である。農民は「国王側近」であるシモン・サドベリとロバート・ヘイルズが人頭税導入を主導したと考え,国王にその処刑の許可を要求した。また反乱の背景となった社会的事象は封建的身分制度の崩壊である。14世紀に入り,気候変動,黒死病,戦乱で農村人口が激減し,領主は労働力を確保するために農民の待遇を改善した。その結果,農奴解放は進み,特にイギリスでは多くの農奴が独立自営農民となっていた。この趨勢に対し,領主が封建的支配の復活を試みたところ,農民が反乱を起こした。ワット゠タイラーがその要求の中に,農奴制の廃止,地代の減額,「民衆に対する領主権」の廃止,国民の身分的差別の撤廃を加えているのはそのためである。すでに農奴制が衰退し,身分的差別が是正されつつあったからこそ,時代の流れに逆らう封建反動を農民は許さなかったのだ。

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