2019年11月12日火曜日

受験世界史/一橋大学2016・第2問

 一橋世界史を解いてみた 

先日、生徒さんから質問があったので、コメントを載せることにしました。
まずは問題がこちら。

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ベルリンにはたくさんの広場がありますが,その中で「最も美しい広場」称されるのは,コンツェルトハウスを中央に,ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが,フランス大聖堂は,その名の通り,ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
 歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば,「ベーベル広場」は,1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で,現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は,ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり,資金不足や技術的困難を乗り越えて,1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが,この円形聖堂は,もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり,彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら,これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)


  1. 「2つの建設された理由を比較しながら」とあるので,「……だからフランス大聖堂は建設された」「……だから聖ヘードヴィヒ聖堂は建設された」,それぞれの「……だから」を比較する。
  2. 「聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景」を説明する。いいかえると,聖堂建設の背景(なぜ聖堂が建設されたのか)を宗教と政治の両面から説明する。


①フランス大聖堂
:1701年着工。プロテスタントの教会。ベルリン在住のユグノーのために建設。
  1. ユグノーとは,フランスの「カルヴァン派」の名称。
  2. 1685年ルイ14世が「ナントの王令」を廃止し,20万を超えるユグノーが亡命を強いられた。ベルリンに約6000人のユグノーがいたのは,このユグノーを受け入れたから。年号的にも「ナントの王令」廃止が背景にあるのはまちがいない。
  3. ユグノーを受け入れたのは,シンプルに国力増強のため。これが聖堂建設の政治的背景。ユグノーの商工業者が大量亡命したことで,フランス経済・産業が停滞した。逆にいえば,ユグノーを受け入れれば,それだけ経済・産業が発展することになる。ユグノーをプロイセンに留めるため,彼らに快適に暮らしてもらうために,「フランス大聖堂」を建設した。
  4. そもそも単純に人口増=国力増と考えていい。特に軍事国家プロイセンにとっては,兵員数を増やすためにも,人口は多ければ多いほどよい。
  5. フランス大聖堂を建設したのは,プロイセンがルター派だから。恐らくベルリンにカルヴァン派の教会がなかったので,フランス人ユグノーのために立派なカルヴァン派の大聖堂を作ったのだろう。これが宗教的背景。

②聖ヘードヴィヒ聖堂
:1747年着工。カトリックの教会。ポーランド系新住民のために建設。
  1. ポーランド人が新たに住民となったのは,オーストリア継承戦争(1740〜1748)でシュレジエンを占領したから。年号的に,民族・宗教を異にする住民が増えるイベントは,オーストリア継承戦争=シュレジエン占領くらいしかない(少なくとも受験生には思いつかない)。

    1740年,プロイセン,シュレジエンを占領。
    1742年,ベルリン条約でオーストリアに領有権を認めさせる。
    1744年,戦争再開。プロイセン,再びオーストリアを撃破。
    1745年,ドレスデン条約でベルリン条約の内容を再確認。
    なお,ベルリン条約もドレスデン条約も教科書未記載。教科書に記載があるアーヘン条約(オーストリア継承戦争の講和条約)は,オーストリア,イギリス,フランス,オランダ,スペインなどが署名しているが,プロイセン,ミュンヘン,ザクセンは参加していない。
  2. シュレジエンにポーランド系住民が多数いたと考えられる。
  3. ポーランド人は旧教徒=カトリック。ここで「ナントの王令廃止」的な宗教寛容令を出せば,たとえ資源豊富なシュレジエンを手に入れたところで,ポーランド系住民が流出して働き手がいなくなる。彼らを引きとめるには,カトリックの聖堂を建設して,どんな信仰でも(カトリックでさえ)認める姿勢を示す必要があった。「内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたもの」とあるのはそのため。「当時の国王」=フリードリヒ2世は,たとえムスリムであっても拒まず受け入れ、彼らのためにモスクを建設しただろう。

【解答案】
1685年,ルイ14世がナントの王令を廃止すると,プロイセンはフランスを後にした多数のユグノーを受け入れた。移民を受け入れることで,人口を増やし,経済・産業を発展させるためである。プロイセンは新教国とはいえルター派なので,ユグノーのためにカルヴァン派のフランス大聖堂を建設した。移民に快適な環境を整備することで,さらなる移民の流入を狙ったと考えられる。1740年,フリードリヒ2世はオーストリア継承戦争でシュレジエンを占領すると,カトリックのポーランド系新住民のために自らデザインして聖へートヴィヒ聖堂を建設した。宗派を問わず国民として受け入れる姿勢を示すことで,人口流出を防ぐと同時に,さらなる移民の流入を狙ったと考えられる。2つの聖堂はいずれも、国力増強のために,宗教・宗派を問わずいかなる移民も受け入れ,また彼らのために宗教施設を整備する,というプロイセンの国策を物語っている。

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