STEP 1
- 秦滅亡後,天下統一をしたのは前漢の劉邦。
- 前漢は郡国制と呼ばれる体制で,中国全土を支配した。
- 武帝の時代に中央集権体制は完成した。
STEP 2
陳勝・呉広の乱
秦が滅ぶきっかけとなったのが,中国史上初の農民反乱「陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)」です。陳勝も呉広も人名です。
陳勝(ちんしょう)は,雇われて他人の土地を耕す仕事をしており,社会の中で最も貧しい層に属していました。ある日,かたわらの仕事仲間に「オレは富貴になっても,おまえのことを忘れないからな」と言ったところ,「おまえ,雇われ労働者のくせに,何を言ってるんだ」と小馬鹿にされました。そのとき,陳勝が言ったのが「燕雀(えんじゃく)いずくんそ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」です。燕雀〈=ツバメやスズメ〉のようなちっぽけな鳥には,鴻鵠〈=オオトリやハクチョウ〉のような雄飛する巨鳥の志はわかるもんか,という意味です。
前209年,始皇帝が病死し,二世皇帝が即位してから一年後。北辺の守備のために兵士として徴発された900人の群衆の中に,陳勝と呉広がいました。秦の北辺は遊牧騎馬民族匈奴(きょうど)の脅威にさらされており,あちこちで徴兵が行われては最前線に配備されていました。陳勝・呉広を含む900人は,決められた集合場所に向かっていましたが,ある日,大雨で動けなくなり,期日内に到着することが不可能になりました。当時の軍法では,期日内に集合場所に現れなければ斬首と決められていたので,もう絶体絶命です。そこで,陳勝と呉広は「このまま殺されるくらいなら立ち上がろう!」とみなを煽動し,引率者の隊長を斬って,「王侯将相いずくんぞ種あらんや」──王・諸侯・将軍・宰相といった身分は「種」〈=生まれ〉によって定まるものではない! と励まし,陳勝自ら将軍となって挙兵しました。軍は瞬く間に膨れ上がり,貧農出身の陳勝がやがて王にまでのぼりつめました。まさに「王侯将相いずくんぞ種あらんや」です。
楚漢戦争
陳勝・呉広の乱をきっかけに天下は混乱し,各地に群雄が割拠します。そうした中,頭角を現したのが,名門出身の将軍項羽と下賤出身の劉邦でした。
はじめ項羽と劉邦はともに同じ主君に仕えて功を競いましたが,前206年,劉邦のほうが秦の都咸陽を落とし秦を滅ぼすという大功をあげます。項羽との関係はこれで徹底的に悪化。2人は敵味方に分かれて天下を争います。
前202年,「四面楚歌」の故事で有名な「垓下(がいか)の戦い」で,劉邦がライバルの項羽を倒し,天下を統一しました。貧民出身の男がとうとう皇帝にのぼりつめたのです。草履売りから皇帝になった劉備といい,乞食坊主から皇帝になった朱元璋といい,下賤出身の皇帝は彼だけではありませんが,それでも彼の出世ぶりはなかなかのもの。彼の廟号は高祖。帝号は高皇帝。新しい王朝の名前を漢といいます。前代の秦王朝と合わせて秦漢帝国と呼ぶこともあります。
法三章
始皇帝の秦と劉邦の漢は対照的な王朝です。
秦が過酷な政治,漢は寛容な政治。秦は3代15年の短命王朝,漢は中断期間を挟むものの29代およそ400年,前3世紀から後3世紀に及ぶ長命王朝。秦は法家思想,漢は儒家思想……。
秦が過酷な法治のせいで滅亡した話はすでにしました(関連記事「秦の法運用の実際」/関連記事「秦の滅亡」)。
一方,漢=劉邦の寛容な統治を物語るエピソードが「法三章」です。劉邦は秦を滅ぼしたのち,民がこれまで秦の細かい法律に苦しめられていたことをかんがみ,それまでの法律を撤廃。シンプルに「殺人,傷害,盗み」のみを禁じました。これを「法三章」と呼びます。もちろん民衆は大喜び。劉邦万歳です。
- 細かく話すと,劉邦はこのときまだ楚の懐王の臣下であり,王はさきだって「先に咸陽を落としたものを,関中(咸陽を中心とする地域=秦の故地)の王にする」と約束していました。そこで,咸陽を落とした劉邦は関中の長老を集め,「長老の方々,みなさんはこれまで秦の法律に苦しめられてきた。わしは懐王との約束により,これから関中の王になる。そこで約束しよう。わしが王となった暁には法は三章のみとすると。『人を殺すものは死刑。人を傷つけたもの,盗みを働いたものは処罰する』,ただそれだけにし,秦法はみな撤廃する!」と約束しました。これで劉邦は長老の心をわしづかみにし,長老は劉邦以外が関中の王になることを恐れました。結果,長老たちの危惧どおり,項羽の横槍が入って劉邦は関中ではなく漢中〈=関中よりももっと南の僻地〉に飛ばされることに。なお劉邦の王朝が「漢」と呼ばれるのはそのためです。
実際に漢を建国したのちは,シンプルな法三章では治安を十分に維持できなかったので(当然です),劉邦が宰相の蕭何に命じ,秦の法律をもとに「九章律」を作らせました。したがって法制度的に,秦と漢はほとんど変わらないと言われています。
匈奴
「匈奴」とは,中国の北方に暮らす遊牧騎馬民族で,このころ英主冒頓単于(ぼくとつぜんう)を得て,一大勢力に育っていました。なお名は冒頓。単于は称号で,中国でいえば「皇帝」に当たります。
遊牧騎馬民族のイメージは,定住せず,牧畜を生業とし,乗馬術に優れ,成人男子はいずれも優秀な騎兵であり,ときおり農村を訪れては交易したり略奪したりする感じです。その機動力を活かし,草原地帯(遊牧世界)から定住農耕地帯(農耕世界)に顔を出しては猛烈な暴力をふるい,また草原地帯に姿を消す──そんな存在です。
モンゴル高原─中央アジア─南ロシアを結び,ユーラシアを東西に横断する草原地帯こそが彼らの世界であり,匈奴,鮮卑,突厥,ウイグル,契丹,フン,アヴァール,マジャール,ブルガリア帝国,モンゴル帝国,セルジューク朝,マムルーク朝,オスマン帝国,オイラート,タタール,ジュンガル……世界史のメインプレーヤーがここから生まれます。世界史は遊牧世界が動かしているといっても過言ではありません。
モンゴル高原─中央アジア─南ロシアを結び,ユーラシアを東西に横断する草原地帯こそが彼らの世界であり,匈奴,鮮卑,突厥,ウイグル,契丹,フン,アヴァール,マジャール,ブルガリア帝国,モンゴル帝国,セルジューク朝,マムルーク朝,オスマン帝国,オイラート,タタール,ジュンガル……世界史のメインプレーヤーがここから生まれます。世界史は遊牧世界が動かしているといっても過言ではありません。
前200年,冒頓単于が国境を犯し,高祖みずから大軍を率いて北上しました。
ところが,季節は冬。しかも天候は大荒れ。寒冷な気候に慣れていない劉邦の漢軍は,兵卒10人のうち2〜3人は凍傷で指を失うありさまで,戦争どころではありません。一方,いくさ上手の冒頓は,精兵を隠して自軍を弱く見せつつ,漢を恐れて退却したふりをし,劉邦を誘い出しました。気を良くして,北へ,北へと追う劉邦。いつしか漢軍の大部分を占める歩兵は置いてけぼりになり,劉邦は少数の車兵・騎兵だけで平城(山西省大同市)にまで進軍していました。
冒頓はこの機を逃さず,精兵40万を投入。孤立した劉邦軍を白登山で包囲しました。蟻も通さぬ厳しい包囲で,7日経っても劉邦は囲みを突破できません。食糧も水も尽き,飢えと渇きが漢軍を襲います。絶体絶命のピンチ。結局,冒頓の奥さん(匈奴では皇后ではなく閼氏と呼ぶ)に厚く贈り物をして口添えしてもらい,冒頓が彼女の言葉を受けて包囲の一角を空けたので,劉邦は危機を脱することができました。
ここで劉邦は匈奴に対して強硬策から懐柔和親策に切り替え,娘(といっても他家の女子を劉邦の娘と偽ったもの)を冒頓の妃として差し出して姻戚関係を結び,毎年,貢物を捧げて匈奴との衝突を回避することにしました。
和親策と消極的外交政策は,劉邦以降も受け継がれることになります。
(つづく)